第2章 第22話:火曜日の夜、最後の仕上げと綻びゆく日常
火曜日の21時半。
オフィス街の喧騒から切り離された俺の部屋には、カツカツと小気味よい音を立てて大根を刻む音が響いていた。
換気扇の下では、鰹節の澄んだ出汁の香りがふわりと立ち上り、リビングの空気を優しく満たしている。
「――はい、今夜は和食の基本、ブリ大根よ! ロンドンでも大きめのスーパーに行けば魚の切り身は手に入るし、大根の代わりにカブを使っても美味しくできるから、この味付けをしっかり覚えておきなさいよね」
淡いピンク色のエプロンを身にまとった千歳が、鍋の様子を真剣な表情で見つめながら言った。
会社のネイビーのジャケットをクローゼットに掛け、白ブラウスの袖を肘の上までパキパキと捲り上げた彼女の姿は、数時間前にオフィスの廊下ですれ違った冷徹な「広報部の如月さん」とは完全に別人だった。
「ブリ大根か。しっかり味が染みてて美味そうだな」
「当たり前でしょ。大根は下茹でして、ブリは熱湯をサッとかけて臭みを取る。この一手間をサボったら、ロンドンのスタッフに『あいつの料理は生臭い』って笑われるんだから」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張ってみせる。
口調も、態度も、いつもの生意気な「男友達」へのツンとした仕草そのままだ。
だが、鍋に落とし蓋をする千歳の横顔をカウンターキッチン越しに見つめながら、俺の胸の奥はドギマギとした精神的狂瀾に激しく揺れ動いていた。
(……あいつ、本当に限界が近いな)
出発まで、あと数日。
昼間のオフィスでは完璧な赤の他人のフリをして、俺を突き放すような事務的な一瞥をくれるくせに、夜になればエプロンを免罪符にして、俺の部屋を家庭的な料理の香りで満たそうとする。
素直に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、大パニックの果てに捻り出した「自炊訓練」という不器用な防壁。
お互いに「気楽な関係」の仮面を被り直そうと必死になっているが、迫り来るロンドンへのタイムリミットは、そんな二人のじれったい境界線を、内側から確実に、そして冷酷に削り取り続けていた。
「ほら、大根も飴色になったから、お皿に盛り付けるわよ。熱いうちに食べなさい!」
「分かった、今運ぶよ」
千歳は動揺を隠すようにわざと声を弾ませ、出来立てのブリ大根をテーブルへと運んだ。
湯気の向こう側で、二人の言葉にできない本音が一瞬だけ交錯し、また静かに沈んでいった。




