第2章 第21話:火曜日の静粛、すれ違う視線の温度
火曜日の午後。オフィスの空気は週の初めのバタバタを引きずりながら、無機質な静寂を保っていた。
俺は人事部の共有スペースで、来週から始まる引き継ぎ書類のマスターデータをファイリングしていた。
カチ、カチ、と廊下の向こうから聞き馴染んだヒールの音が近づいてくる。
書類をめくる手を止めずに、俺は視線だけをほんの少し上に向けた。
「――あ、人事部の相馬さん。お疲れ様です。広報部の方で今期分の海外向けプレスリリースのアーカイブをまとめました。共有のサーバーにアップしてありますので、後ほどご確認ください」
「お疲れ様です、如月さん。ありがとうございます。ロンドン現地のスタッフにも共有しておきます」
千歳は非の打ち所がない完璧なビジネススマイルを浮かべ、コクリと丁寧に頭を下げた。
その瞳には、昨夜俺の部屋で「玉ねぎは飴色になるまで炒めるの!」と木べらを振り回していた面影など微塵もない。
完璧な他人のフリ。完璧なビジネス敬語。
周囲の社員たちは、彼女が毎晩のように俺の部屋の台所に立ち、淡いピンクのエプロンを身にまとって必死に料理を作っていることなど、想像すらしていないだろう。
すれ違いざま、千歳のジャケットの袖口が、俺の腕にかすかに触れた。
ほんの一瞬、彼女が愛用している少し甘い香水の匂いが、オフィスの無機質な空気の中に溶けていく。
千歳はそのまま真っ直ぐに廊下を歩き去り、一度も振り返ることはなかった。
その徹底された「仮面」の冷たさが、今日の俺の胸を、いつもより少し深くチクリと刺した。
昼間のオフィスで見せる完璧な赤の他人のフリと、夜の部屋で見せるエプロン姿の裏の必死さ。
その圧倒的なギャップに、俺の胸はドギマギとした精神的狂瀾を抑えきれずにいた。
素直に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、「男友達の自炊訓練」という大義名分を盾にして、必死に俺との時間を繋ぎ止めようとしている。
その不器用な境界線が、もう長くは持たないことを予感しながら、俺は今日も、「完璧な他人のフリ」という名の、終わりの見えたモラトリアムを演じ続けるしかなかった。




