第2章 第20話:月曜日の夜、最後の自炊訓練
月曜日の21時半。
オフィスでの息の詰まるような視線の交錯から数時間後、俺の部屋のキッチンは、食欲をそそる芳醇なスパイスの香りで満たされていた。
「――はい、今日の自炊訓練はチキンカレーよ! ロンドンに行ったらスパイスの調達だけは困らないはずだから、ベースの作り方くらいは今夜で完璧に叩き込んであげるわ!」
淡いピンク色のエプロンを身にまとった千歳が、木べらを手に持って鍋を力強くかき混ぜていた。
オフィスのネイビーのジャケットを脱ぎ捨て、ブラウスの袖を肘まで綺麗に捲り上げた彼女の姿は、数時間前に廊下ですれ違った「広報部の如月さん」とは完全に別人だ。
「カレーか。これなら作り置きもできるし、確かにロンドンでも重宝しそうだな」
「でしょ? 感謝しなさいよね。ほら蓮、玉ねぎが飴色になるまで炒めるプロセス、ちゃんと見てて! ここをサボると味がボヤけるんだから!」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張ってみせる。
口調も、態度も、いつもの生意気な「男友達」へのツンとした仕草そのままだ。
だが、じっくりと玉ねぎを炒める千歳の横顔をカウンターキッチン越しに見つめながら、俺は彼女の細い指先が、木べらの柄を白くなるほど強く握りしめていることに気づいていた。鍋から立ち上る湯気が、彼女の少し潤んだ瞳を隠すように白く揺らめく。
(……あいつ、本当は今にも限界を迎えそうなんじゃないか)
出発まで、あと数日。
昼間のオフィスでは完璧な赤の他人のフリをして、俺を突き放すような事務的な一瞥をくれるくせに、夜になればエプロンを免罪符にして、俺の部屋を料理の香りで支配しようとする。
素直に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、パニックの果てに捻り出した「自炊訓練」という不器用な防壁。
その圧倒的なギャップと、彼女が頑なに維持しようとしている「男友達」というガラス細工の境界線の脆さに、俺の胸の奥はドギマギとした精神的狂瀾に激しく引き裂かれていた。
「ほら、お皿にご飯盛って! ルーをかけるのは私がやるから!」
「分かった、今やるよ」
千歳は動揺を隠すようにわざと声を弾ませ、カレーを綺麗に盛り付けた。
言えない本心をスパイスの香りの向こう側に隠し、お互いに「気楽な関係」を演じ続けようと必死になっている。しかし、迫り来るロンドンへのタイムリミットは、そんな二人のじれったい防壁を、内側から確実に、そして冷酷に削り取り続けていた。




