第2章 第19話:月曜日の氷点下、他人のフリの限界値
月曜日の朝。いつもと同じように、新しい一週間を告げる慌ただしい空気がオフィスを満たしていた。
俺は人事部の自席で、海外事業部から回ってきたロンドン現地の労働許可証の最終確認を行っていた。
「相馬さん、お疲れ様です。引き継ぎ用のマニュアル、最終版を共有フォルダにアップしましたので、最終チェックをお願いします」
「ありがとう、すぐに目を通すよ」
後輩に短く答え、画面をスクロールする。
出発までいよいよ一週間を切り、俺の周りの景色は、完全に「ロンドンへ旅立つ男」の仕様へと塗り替えられつつあった。デスクの上が整理され、身の回りの荷物が段ボールに詰められていくたびに、この場所から自分が切り離されていく現実が、冷徹な数字のように突きつけられる。
(……出発まで、あと数日か)
喉の奥がジリジリと焼けるような焦燥感を覚えながら、俺はふと、フロアの向こう側へと視線を走らせた。
「――如月さん、先週のイベントのメディア露出レポート、役員会用に綺麗にまとまっていました。ありがとうございます」
「とんでもございません、部長。各メディアのフィードバックも追加してありますので、次回の戦略立案の際にご活用ください」
広報部のブースから、千歳のハキハキとした声が聞こえてきた。
一寸の隙もないネイビーのジャケットを身にまとい、知的なハーフアップの髪を揺らしながら上司と会話を交わしている。その凛とした佇まいは、誰もが信頼を寄せる「広報のエース、如月さん」そのものだ。
完璧な他人のフリ。完璧なビジネス敬語。
周囲の社員たちは、彼女が毎晩のように俺の部屋に押しかけ、ピンクのエプロン姿で「火が強すぎる!」と怒鳴り散らしながら、昨夜もタッパーにほうれん草の胡麻和えを詰めていたことなど、夢にも思っていないだろう。
千歳がふと顔を上げ、こちらのフロアへと視線を走らせた。
――目が合う。
距離にして十メートルほど。オフィスを飛び交う雑音の向こう側で、俺たちの視線がまっすぐに交錯した。
千歳はいつも通り、表情を一切崩さないまま、ただの「人事部の相馬さん」に対する事務的な一瞥をくれると、すぐに手元のタブレットへと視線を戻した。
その徹底された「仮面」の冷たさが、今日の俺の胸を、いつもより少し深くチクリと刺した。
昨夜、エプロンの紐を解く瞬間に見せた、あの引き留めるような指先の震え。
昼間のオフィスで見せる完璧な赤の他人のフリと、夜の部屋で見せるエプロン姿の裏の必死さ。
その圧倒的なギャップに、俺の胸はドギマギとした精神的狂瀾を抑えきれずにいた。
素真に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、「男友達の自炊訓練」という大義名分を盾にして、必死に俺との時間を繋ぎ止めようとしている。
その不器用な境界線が、もう長くは持たないことを予感しながら、俺は今日も、「完璧な他人のフリ」という名の、終わりの見えたモラトリアムを演じ続けるしかなかった。




