第2章 第18話:日曜日の夜、常備菜とほどけない結び目
日曜日の21時。
窓の外は完全な夜の帳が下り、街全体が明日からの平日に向けて静かに息を潜めている。
俺の部屋のキッチンでは、換気扇が低くうなる音だけが響いていた。
「はい、これで週末の特別集中講義はすべて終了。明日からはまた、平日の基本カリキュラムに戻るからね」
淡いピンク色のエプロンの紐を背中で解きながら、千歳がふぅ、と小さく息を吐き出した。
カウンターの上には、彼女が「ロンドンでの鉄分不足対策」と称して作った、ほうれん草の胡麻和えとひじきの煮物が、透明なタッパーに整然と並べられている。
「わざわざ週末に作り置きまでありがとう。これで来週の平日は、仕事が遅くなっても安心だな」
「当然でしょ。あんたに完璧な『自炊訓練』を施すって決めたんだから。中途半端な状態でロンドンに送り出したら、幼馴染の私のプライドが許さないの」
千歳はいつものように、小生意気な「男友達」へのツンとした態度で胸を張ってみせる。
しかし、エプロンを丁寧に畳む彼女の指先が、ほんの少しだけ名残惜しそうに、布地の端を強く握りしめているのを俺は見逃さなかった。
明日になれば、また新しい一週間が始まる。
オフィスに入れば、俺たちは再び「人事部の相馬さん」と「広報部の如月さん」という、完璧な赤の他人の仮面を被らなければならない。
出発まで、あと一週間。仕事中、俺のデスクの周りでどれほどロンドン赴任の具体的な引き継ぎが最終段階を迎えていようとも、千歳はそれを遠くから冷徹に見つめることしかできないのだ。
「……じゃあ、私は隣の部屋に戻るね。明日、遅刻しないでよ? 月曜日の朝一から人事部がだらしない顔してたら、広報部として示しがつかないんだから」
「分かってるよ。お前こそ、月曜からまた新しいプレスリリースの件で忙しいんだろ」
「フン、私はエースだから平気よ」と千歳はいつもの不敵な笑みを浮かべ、バッグを肩に掛けた。
玄関まで彼女を見送り、ドアが閉まる。
ガチャリ、とシリンダーが回る重い金属音が部屋に響き、再び静寂が戻ってきた。
カウンターキッチンに残された、彼女の手作りの常備菜。
素直に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、「男友達の健康管理」という大義名分を盾にして、俺の生活のすべてを料理で満たそうとしている。
昼間のオフィスで見せる完璧な赤の他人のフリと、夜の部屋で見せるエプロン姿の裏の必死さ。
その圧倒的なギャップに、俺の胸はドギマギとした精神的狂瀾を抑えきれずにいた。
出発までのタイムリミットは、刻一刻と近づいている。
言えない本心をエプロンの下に隠し、お互いに「男友達」「幼馴染」という安全な仮面を必死に被り直そうとしているが、その結び目は、もう限界を迎えつつあった。




