第2章 第17話:土曜日の黄昏、沈黙が溶かすシチュー
土曜日の17時。
ロールキャベツをコトコトと煮込むコンロの微かな火の音だけが、静かになったリビングに響いていた。
窓の外を見れば、初夏の力強い太陽が西の空へと傾き、部屋全体を濃い茜色に染め上げている。壁に伸びる二人の影が、いつもより少しだけ長く、そして近く見えた。
千歳はソファの上で、お気に入りのクッションを胸に抱え込んだまま、いつの間にか小さな寝息を立てていた。
会社のネイビーのジャケットを脱ぎ捨て、上品なハーフアップをルーズなお団子頭に結び直したその寝顔は、昼間のオフィスで見せる「如月さん」の完璧な戦闘服とは対照的に、どこまでも無防備で儚い。
俺はダイニングチェアに腰掛け、そんな彼女の姿をただ静かに見つめていた。
机の引き出しの奥には、先ほど彼女の目を盗んで隠したロンドンの生活マニュアルが、静かに眠っている。
(この穏やかな時間が、もうすぐ手の中から完全にこぼれ落ちていく……)
胸の奥にある罪悪感と焦燥感の重みは、部屋に満ちる夕闇とともに静かに増していくようだった。
出発まで、あと一週間。
彼女は「自炊訓練」という不器用な大義名分を盾にして、毎晩のように俺の部屋に押しかけ、俺の生活のすべてを料理の香りで満たそうとしている。素直に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、大パニックの果てに捻り出した、あまりにも健気で、必死な抵抗。
昼間のオフィスで見せる完璧な赤の他人のフリと、夜の部屋で見せるエプロン姿の裏の必死さ。
その圧倒的なギャップに、俺の胸はドギマギとした精神的狂瀾を抑えきれずにいた。
「男友達」という完璧な防壁の内側で、俺という安全基地を確信しているからこそ、彼女はこんなにも無防備な姿を晒せるのだ。だが、その安全基地を壊そうとしているのは、他ならぬ俺自身だった。
「……ん……。蓮……?」
不意に、千歳が小さく声を漏らしながら、ゆっくりと目を開けた。
茜色の光の中で、少し潤んだ瞳がまっすぐに俺を捉える。
「起きたか。随分と気持ち良さそうに寝てたな」
「うう……。なんか、蓮の部屋の匂いって落ち着くから、つい……。ロールキャベツ、どうなった?」
「もうバッチリ煮込んであるよ。スープもいい色だ」
千歳は体を起こし、お団子頭から溢れた後れ毛を無造作にかき上げながら、窓の外の夕焼けを見つめた。
「そっか……。土曜日が終わっちゃうね」
その呟きは、いつものからからとしたトーンとは違い、どこか寂しげに響いた。
まるで、彼女もまた、この目に見えない日常の終わりを本能的に察知し、タイムリミットの足音に怯えているかのように。
「……なあ、千歳」
「ん? なに?」
「……いや、なんでもない。お腹が空いたなら、そろそろお皿に盛り付けるよ」
俺はまた、一番大切な言葉を喉の奥に押し込み、優しい嘘の笑顔を浮かべた。
「やった。じゃあ、熱いうちに食べよ!」
千歳はいつもの「男友達」としてのツンとした笑顔を取り戻し、嬉しそうに微笑んだ。
言えない本心をエプロンの下に隠し、お互いに「男友達」「幼馴染」という安全な仮面を必死に被り直そうとしている。
しかし、迫り来るロンドンへのタイムリミットは、二人のじれったい境界線を、少しずつ、だけど確実に溶かし始めていた。




