第2章 第16話:土曜日の朝、白いエプロンと静かな焦燥
土曜日の午前10時。
平日のオフィスの喧騒から完全に切り離された部屋には、遮光カーテンの隙間から、どこか気だるい初夏の陽光が差し込んでいた。
いつもなら平日の夜に鍵を開けて入ってくる千歳が、今日は珍しく、インターホンを鳴らして我が家にやってきた。
ドアを開けると、そこにはゆったりとした白のローゲージニットに、ベージュのロングスカートを合わせた、完全な私服姿の彼女が立っていた。
手には、近くの高級スーパーの大きなビニール袋を提げている。
「よ、お邪魔します。今日は週末特別集中講義だからね。ほら、食材」
千歳はそう言って、袋を誇らしげに掲げてみせた。中からは、大きなキャベツの塊と、小分けにされた豚肉のパックが覗いている。
オフィスのネイビーのジャケットを脱ぎ捨て、上品なハーフアップの髪をルーズなお団子頭にまとめ直した彼女は、すぐにマイエプロンを腰に巻いた。
昼間の光の中で見る千歳は、オフィスの「如月さん」とも、平日の夜の「だらけた千歳」とも違う、どこか懐かしい昔ながらの幼馴染の少女の面影を強く残している。
「今日はロールキャベツよ。ロンドンに行ってから、現地のスタッフにあんたの貧相な食生活を見られたら、日本の広報部としての私のメンツが丸潰れなんだからね」
「なんだよそれ、俺がロンドンで何を食おうが広報部の業務には関係ないだろ」
俺は苦笑しながらも、彼女に指示されるまま、キャベツの葉を一枚ずつ丁寧に剥がす作業を手伝い始めた。
「大ありよ! 蓮は私の……私の、大事な『男友達』なんだから。変な食生活で体調崩されたら、私が実家のオバチャンに怒られるでしょ!」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張ってみせる。
口調も態度も、いつもの生意気なツンとした仕草そのままだ。
だが、キャベツの芯を包丁で薄く削ぎ落とす千歳の横顔をカウンターキッチン越しに見つめながら、俺の胸の奥はドギマギとした精神的狂瀾に激しく揺れ動いていた。
彼女の細い指先が、包丁の柄を白くなるほど強く握りしめているのを、俺の目は見逃さなかった。コンロの上でパスタを茹でる鍋の湯気が、彼女の少し潤んだ瞳を隠すように白く揺らめく。
出発まで、あと一週間。
素直に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、「男友達の健康管理」という分厚い大義名分を盾にして、週末のプライベートな時間まで俺の部屋を支配しようとする。
昼間のオフィスでは完璧な赤の他人のフリをして俺を突き放すくせに、こうして二人きりになると、エプロンを免罪符にして俺との時間を1秒でも長く繋ぎ止めようと必死になっている。
その圧倒的なギャップと、彼女が頑なに維持しようとしている「男友達」というガラス細工の防壁の脆さに、俺の胸は締め付けられるように痛んだ。
「ほら、お肉をキャベツで包んだら、爪楊枝でしっかり留めるの! 隙間があったら煮込んだときに形が崩れちゃうんだから!」
「分かった、丁寧にやるよ」
千歳は動揺を隠すようにわざと声を荒らげ、俺の手元を覗き込んできた。
言えない本心をエプロンの下に隠し、お互いに「男友達」「幼馴染」という安全な仮面を必死に被り直そうとしている。しかし、迫り来るロンドンへのタイムリミットは、そんな二人のじれったい境界線を、少しずつ、だけど確実に溶かし始めていた。




