第2章 第15話:金曜日の熱帯夜、重なる影と解けない方程式
金曜日の21時半。
一週間の労働が終わり、オフィス街が週末の解放感に包まれる頃、俺の部屋のキッチンは、どこか息苦しいほどの熱気と香ばしい胡麻油の匂いに満たされていた。
「――はい、今日のメニューは餃子よ! ロンドンでもチャイナタウンに行けば皮もひき肉も手に入るから、この包み方を今夜で完全にマスターしなさいよね!」
淡いピンク色のエプロンを身にまとった千歳が、小さなスプーンで器用に餡をすくい、皮の中心に乗せていく。
会社のネイビーのジャケットを脱ぎ捨て、ブラウスの袖を肘の上までパキパキと捲り上げた彼女の姿は、数時間前にオフィスの廊下で「お疲れ様です、相馬さん」と氷点下のビジネススマイルを浮かべていた「広報のエース」とは完全に別人だった。
「餃子か。包むのは結構難しそうだな。お前、手際が良すぎるだろ」
「当たり前でしょ! 餃子はヒダの数が命なの。隙間があったら焼いたときに肉汁が全部逃げちゃうんだから。ほら蓮、あんたもぼうっと見てないで、手を動かす!」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張ってみせる。
口調も、態度も、いつもの生意気な「男友達」へのツンとした仕草そのままだ。
だが、隣に並んで皮を包む千歳の横顔を見つめながら、俺の胸の奥はドギマギとした精神的狂瀾に激しく揺れ動いていた。
皮の端を濡らす彼女の細い指先が、かすかに、だけど確実に震えているのを、俺の目は見逃さなかった。
出発まで、あと一週間と少し。
手元に積み上がる餃子の数は、そのまま俺たちに残された時間のカウントダウンのようでもあった。
(……あいつ、本当は今にも張り裂けそうなんじゃないか)
昼間のオフィスでは完璧な赤の他人のフリをして、俺を突き放すような事務的な一瞥をくれるくせに、夜になればエプロンという名の防壁を免罪符にして、俺の部屋を家庭的な料理の香りで支配しようとする。
素直に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、パニックの果てに捻り出した「自炊訓練」という不器用な大義名分。
その圧倒的なギャップと、彼女が頑なに維持しようとしている「男友達」というガラス細工の境界線の脆さに、俺は窒息しそうなほどの愛おしさと焦燥感を覚えていた。
手を伸ばしてその肩を抱き寄せ、すべての仮面を剥ぎ取ってしまいたいという衝動が、喉の奥まで競り上がってくる。だが、それをすれば、彼女が必死に守っているこの最後のモラトリアムすら壊してしまうことになる。
「ほら、綺麗に包めたわよ! あとはフライパンに並べて焼くだけだから、あんたは火加減をしっかり見てて!」
「……ああ、分かったよ」
千歳は動揺を隠すようにわざと声を弾ませ、フライパンに餃子を並べ替えた。
ジューッという激しい音が二人の間の沈黙をかき消していく。
言えない本心をエプロンの下に隠し、お互いに「気楽な関係」を演じ続けようと必死になっているが、迫り来るロンドンへのタイムリミットは、そんな二人のじれったい方程式を、内側から確実に、そして冷酷に狂わせ始めていた。




