第2章 第14話:木曜日の限界点、煮詰まる沈黙
木曜日の15時過ぎ。一週間で最も疲労が濃くなるこの時間帯、俺のデスクの上にはロンドン現地の医療保険手続きや、航空券の手配確認書が最終チェックを待つように並んでいた。
出発までいよいよ十日余り。周囲から掛けられる「向こうに行っても体に気をつけてな」という言葉が、実感を伴って俺の背中を押してくる。
「――如月さん、先ほどのプレスリリースの件ですが、海外メディア向けの配信リストに一部修正が入りました。確認をお願いします」
「承知いたしました。すぐにリストを差し替えて再設定いたします」
広報部のブースから聞こえる千歳の声は、いつも通り凛としていて、オフィスの無機質な空気に溶けていく。一寸の隙もないネイビーのジャケット、知的にまとめられたハーフアップ。完璧な「広報のエース、如月さん」の仮面を被った彼女は、同僚たちと淡々と打ち合わせをこなしていた。
千歳がふと顔を上げ、こちらのフロアへと視線を走らせた。
――目が合う。
遮るもののないオフィスの通路を挟んで、二人の視線がまっすぐに交錯する。
千歳は表情を一ミリも変えないまま、ただの「人事部の相馬さん」に対する事務的な一瞥をくれると、すぐに手元のタブレットへと視線を戻した。
その徹底された「他人のフリ」の冷たさが、今の俺にはどうしようもなく切なかった。
その夜、21時半。
昼間のオフィスで見せた冷徹な空気が嘘のように、俺の部屋のキッチンには、香ばしい醤油とみりんの甘い香りが立ち上っていた。
「いい、蓮? ぶりの照り焼きの基本は、タレを入れる前に余分な油をペーパーでしっかり拭き取ること。そうしないと、魚の生臭さが残って台無しになっちゃうんだから」
淡いピンク色のエプロンを身にまとった千歳が、フライパンの中のぶりの切り身を真剣な表情で見つめながら言った。会社のジャケットを脱ぎ捨て、ブラウスの袖を肘の上までパキパキと捲り上げた彼女の姿は、数時間前に廊下ですれ違った「如月さん」とは完全に別人だった。
「分かったよ。でも、お前さっきからタレの煮詰め具合、随分と神経質にチェックしてるな」
「当たり前でしょ! 照り焼きはタレの『照り』が命なの! ロンドンに行ってから、現地のスタッフにあんたのベチャベチャした照り焼きを見られたら、幼馴染の私のプライドが許さないんだからね!」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張ってみせる。
口調も、態度も、いつもの生意気な「男友達」へのツンとした仕草そのままだ。
だが、フライパンを揺らす千歳の横顔をカウンターキッチン越しに見つめながら、俺の胸の奥はドギマギとした精神的狂瀾に激しく揺れ動いていた。
彼女の細い指先が、フライパンの柄を白くなるほど強く握りしめているのを、俺の目は見逃さなかった。タレが煮詰まるジジジという音が、やけに大きく部屋に響く。
(……あいつ、本当は今にも泣き出しそうなんじゃないか)
昼間のオフィスでは完璧な赤の他人のフリをして俺を突き放すくせに、夜になればエプロンを免罪符にして、俺の部屋を家庭的な料理の香りで支配しようとする。
素直に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、パニックの果てに捻り出した「自炊訓練」という名の不器用な防壁。その圧倒的なギャップと、彼女が頑なに維持しようとしている「男友達」というガラス細工の境界線の脆さに、俺の心は千々に乱れていた。
「ほら、お皿に盛り付けるわよ。熱いうちに食べなさい!」
「分かった、今運ぶよ」
千歳は動揺を隠すようにわざと声を弾ませ、出来立てのぶりの照り焼きをテーブルへと運んだ。
湯気の向こう側で、二人の言葉にできない本音が一瞬だけ交錯し、また静かに沈んでいった。




