第2章 第13話:水曜日の氷結、近づく距離と遠ざかる未来
水曜日の15時。オフィスに差し込む午後の光は、初夏の力強さを帯びて床を白く照らしている。
俺は人事部のデスクで、海外渡航者向けの保険加入手続き書類にサインを走らせていた。
内示の公表から2週間。残された日数が一桁へと近づいていくにつれ、周囲の「ロンドンでも頑張れよ」という激励の言葉が、徐々に現実の輪郭を帯びて俺の肩にのしかかる。
「――如月さん、先ほど提出していただいたプレスリリースの海外配信スケジュール、これで確定で進めます」
「承知いたしました。すぐに配信設定を完了させます」
広報部のブースから、千歳の凛とした声が響いていた。
一寸の隙もないネイビーのジャケットに、知的なハーフアップ。彼女は完璧な「広報のエース」の仮面を被り、同僚たちと淡々と打ち合わせをこなしている。
千歳がふと顔を上げ、こちらのフロアへと視線を走らせた。
――目が合う。
オフィスを行き交う社員たちの雑音の向こう側で、俺たちの視線がまっすぐに交錯する。
千歳はいつも通り、表情を一ミリも崩さないまま、ただの「人事部の相馬さん」に対する事務的な一瞥をくれると、すぐに手元のタブレットへと視線を戻した。
徹底された他人のフリ。だが、その徹底ぶりこそが、彼女の胸の内の動揺を雄弁に物語っているように思えてならなかった。
その夜の21時半。
昼間の冷徹なオフィスライクが嘘のように、俺の部屋のキッチンでは、香ばしい醤油の香りが立ち上っていた。
「いい、蓮? 筑前煮の基本は、根菜類をじっくり炒めてから出汁を入れること。そうしないと、味が中まで染み込まないんだからね」
淡いピンク色のエプロンを身にまとった千歳が、鍋の中の蓮根や人参をごぼうと一緒に木べらで力強くかき混ぜていた。
会社のジャケットを脱ぎ捨て、ブラウスの袖をパキパキと捲り上げた彼女の姿は、昼間の「如月さん」とは完全に別人だ。
「分かったよ。でも、お前さっきから根菜の乱切り、随分と形にこだわってるな」
「当たり前でしょ! 乱切りは表面積を増やして味を染み込みやすくするための基本なの! ロンドンに行ってから、現地のスタッフにあんたの不格好な煮物を見られたら、幼馴染の私のプライドが許さないんだからね!」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張ってみせる。
口調も、態度も、いつもの生意気な「男友達」へのツンとした仕草そのままだ。
だが、鍋に落とし蓋をする千歳の横顔をカウンターキッチン越しに見つめながら、俺の胸の奥はドギマギとした精神的狂瀾に激しく揺れ動いていた。
(……あいつ、本当は今にも限界を迎えそうなんじゃないか)
昼間のオフィスでは完璧な赤の他人のフリをして俺を突き放すくせに、夜になればエプロンを免罪符にして、俺の部屋を家庭的な料理の香りで支配しようとする。
素直に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、パニックの果てに捻り出した「自炊訓練」という名の不器用な防壁。その圧倒的なギャップと、彼女が頑なに維持しようとしている「男友達」というガラス細工の境界線の脆さに、俺の心は千々に乱れていた。
「ほら、お皿に盛り付けるわよ。熱いうちに食べなさい!」
「分かった、今運ぶよ」
千歳は動揺を隠すようにわざと声を弾ませ、出来立ての筑前煮をテーブルへと運んだ。
湯気の向こう側で、二人の言葉にできない本音が一瞬だけ交錯し、また静かに沈んでいった。




