第2章 第12話:火曜日の夜、出汁の優しさと隠された刃
火曜日の21時半。
昼間のオフィスで見せた冷徹な「他人のフリ」から数時間後、俺の部屋のキッチンには、鰹と昆布の豊かな出汁の香りがふわりと立ち上っていた。
「――はい、今夜は和食の基本、肉豆腐よ! ロンドンでもアジアンスーパーに行けばお豆腐や薄切り肉は手に入るらしいから、この甘辛い味付けをしっかり覚えておきなさいよね」
淡いピンク色のエプロンを身にまとった千歳が、鍋の様子を真剣な表情で見つめながら言った。
会社のネイビーのジャケットをクローゼットの横に掛け、ブラウスの袖を肘の上までパキパキと捲り上げた彼女の姿は、数時間前に廊下ですれ違った「広報のエース、如月さん」とは完全に別人だった。
「肉豆腐か、いいな。出汁の匂いを嗅ぐだけで落ち着くよ」
「でしょ? 感謝しなさいよね。ほら蓮、お豆腐は手で大きめにちぎって入れなさい。その方が味が染み込みやすいんだから」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張ってみせる。
口調も、態度も、いつもの生意気な「男友達」へのツンとした仕草そのままだ。
だが、鍋に落とし蓋をする千歳の横顔をカウンターキッチン越しに見つめながら、俺の胸の奥はドギマギとした精神的狂瀾に激しく揺れ動いていた。
(……あいつ、やっぱり無理をしてる)
昼間のオフィスでは完璧な赤の他人のフリをして、俺を突き放すような事務的な一瞥をくれるくせに、夜になればエプロンを免罪符にして、俺の部屋を家庭的な料理の香りで満たそうとする。
素直に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、大パニックの果てに捻り出した「自炊訓練」という不器用な防壁。
お互いに「気楽な関係」の仮面を被り直そうと必死になっているが、迫り来るロンドンへのタイムリミットは、そんな二人のじれったい境界線を、内側から確実に、そして冷酷に削り取り続けていた。
「ほら、お皿に盛り付けるわよ。熱いうちに食べなさい!」
「分かった、今運ぶよ」
千歳は動揺を隠すようにわざと声を弾ませ、出来立ての肉豆腐をテーブルへと運んだ。
湯気の向こう側で、二人の言葉にできない本音が一瞬だけ交錯し、また静かに沈んでいった。




