第2章 第8話:日曜日の夜、エプロンの紐を解くとき
日曜日の21時。
窓の外は完全な夜の帳が下り、街全体が明日からの平日に向けて静かに呼吸を整えている。
俺の部屋のキッチンでは、小さな換気扇の回る音だけが低く響いていた。
「はい、これで週末の集中講義は終了。月曜日からはまた、平日の基本カリキュラムに戻るからね」
淡いピンク色のエプロンの紐を背中で解きながら、千歳がふぅ、と小さく息を吐き出した。
テーブルの上には、彼女が「ロンドンでのビタミン不足対策」と称して作った、ブロッコリーとトマトの常備菜がタッパーに綺麗に並べられている。
「わざわざ週末に作り置きまでありがとう。これで一週間は野菜に困らなそうだ」
「当然でしょ。あんたに完璧な『自炊訓練』を施すって決めたんだから。中途半端な状態でロンドンに送り出したら、幼馴染の私のプライドが許さないの」
千歳はいつものように、小生意気な「男友達」へのツンとした態度で胸を張ってみせる。
しかし、エプロンを丁寧に畳む彼女の指先が、ほんの少しだけ引き留めるように布地を強く握りしめているのを、俺は見逃さなかった。
明日になれば、また一週間の始まり。
オフィスに入れば、俺たちは再び「人事部の相馬さん」と「広報部の如月さん」という、完璧な赤の他人の仮面を被らなければならない。
周囲に内示が公表されてから一週間が経とうとしている。仕事中、俺のデスクの周りでどれほどロンドン赴任の具体的な引き継ぎが進んでいようとも、千歳はそれを遠くから冷徹に見つめることしかできないのだ。
「……じゃあ、私は隣の部屋に戻るね。明日、遅刻しないでよ? 月曜日の朝一から人事部がだらしない顔してたら、広報部として示しがつかないんだから」
「分かってるよ。お前こそ、月曜からまたイベントの準備で忙しいんだろ」
「フン、私はエースだから平気よ」と千歳はいつもの不敵な笑みを浮かべ、バッグを肩に掛けた。
玄関まで彼女を見送り、ドアが閉まる。
ガチャリ、とシリンダーが回る重い金属音が部屋に響き、再び静寂が戻ってきた。
カウンターキッチンに残された、彼女の手作りの常備菜。
素直に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、「男友達の健康管理」という大義名分を盾にして、俺の生活のすべてを料理で満たそうとしている。
昼間のオフィスで見せる完璧な赤の他人のフリと、夜の部屋で見せるエプロン姿の裏の必死さ。
その圧倒的なギャップに、俺の胸はドギマギとした精神的狂瀾を抑えきれずにいた。
出発までのタイムリミットは、刻一刻と近づいている。
言えない本心をエプロンの下に隠し、お互いに「男友達」「幼馴染」という安全な仮面を必死に被り直そうとしているが、その境界線は、もう限界を迎えつつあった。




