第2章 第7話:土曜日の黄昏、茜色に染まる嘘
土曜日の17時。
カボチャのポタージュとオムライスの遅い昼食を終え、片付けを済ませた後の部屋には、ゆっくりと夕闇が忍び寄っていた。
窓の外からは燃えるような茜色の光が差し込み、リビングの壁や床を濃いオレンジ色に染め上げている。
千歳はソファの上で、お気に入りのクッションを胸に抱え込んだまま、静かに目を閉じていた。
会社のネイビーのジャケットを脱ぎ捨て、ルーズなお団子頭にした彼女の寝顔は、オフィスの「如月さん」の完璧な戦闘服とは対照的に、どこまでも無防備で、そして儚い。
俺はダイニングチェアに腰掛け、そんな千歳の姿をただ静かに見つめていた。
手元には、先ほど彼女の目を盗んで隠したロンドン現地の生活セットアップマニュアルが、静かに机の引き出しの奥で眠っている。
(この穏やかな時間が、もうすぐ手の中からこぼれ落ちていく……)
胸の奥にある罪悪感と焦燥感の重みは、部屋に満ちる夕闇とともに静かに増していくようだった。
出発まで、あと二週間と少し。
彼女は「自炊訓練」という大義名分を盾にして、毎晩のように俺の部屋に押しかけ、俺の生活のすべてを料理で満たそうとしている。素直に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、大パニックの果てに捻り出した、あまりにも不器用で必死な抵抗。
昼間のオフィスで見せる完璧な赤の他人のフリと、夜の部屋で見せるエプロン姿の裏の必死さ。
その圧倒的なギャップに、俺の胸はドギマギとした精神的狂瀾を抑えきれずにいた。
「男友達」という完璧な防壁の内側で、俺という安全基地を確信しているからこそ、彼女はこんなにも無防備な姿を晒せるのだ。だが、その安全基地を壊そうとしているのは、他ならぬ俺自身だった。
「……ん……。蓮……?」
不意に、千歳が小さく声を漏らしながら、ゆっくりと目を開けた。
茜色の光の中で、少し潤んだ瞳がまっすぐに俺を捉える。
「起きたか。随分と気持ち良さそうに寝てたな」
「うう……。なんか、蓮の部屋って妙に落ち着くから、つい……。今、何時?」
「もう17時過ぎだ。そろそろ夕暮れだな」
千歳は体を起こし、お団子頭から溢れた後れ毛を無造作にかき上げながら、窓の外の夕焼けを見つめた。
「そっか……。土曜日が終わっちゃうね」
その呟きは、いつものからからとしたトーンとは違い、どこか寂しげに響いた。
まるで、彼女もまた、この目に見えない日常の終わりを本能的に察知し、タイムリミットの足音に怯えているかのように。
「……なあ、千歳」
「ん? なに?」
「……いや、なんでもない。お腹が空いたなら、そろそろ夜ご飯の準備をするよ」
俺はまた、一番大切な言葉を喉の奥に押し込み、優しい嘘の笑顔を浮かべた。
「やった。じゃあ、夜はポタージュの残りと、何作ってくれるの?」
千歳はいつもの「男友達」としてのツンとした笑顔を取り戻し、嬉しそうに微笑んだ。
言えない本心をエプロンの下に隠し、お互いに「男友達」「幼馴染」という安全な仮面を必死に被り直そうとしている。
しかし、迫り来るロンドンへのタイムリミットは、二人のじれったい境界線を、少しずつ、だけど確実に溶かし始めていた。




