第2章 第6話:土曜日の境界線、甘さと苦さのポタージュ
土曜日の午前11時。
平日の張り詰めた空気から切り離された部屋には、遮光カーテンの隙間から穏やかな陽光が差し込み、床に白い四角を描いていた。
テレビからは週末特有ののんびりとした情報番組の音声が低く流れている。
いつもなら平日の夜に鍵を開けて入ってくる千歳が、今日は珍しく、インターホンを鳴らして我が家にやってきた。
ドアを開けると、そこにはゆったりとしたローゲージの白ニットに、小花柄のロングスカートを合わせた完全な私服姿の彼女が立っていた。
「よ、お邪魔します。今日は週末特別集中講義だからね。ほら、食材」
千歳はそう言って、両手に下げた紙袋を誇らしげに掲げてみせた。中からは、カボチャや玉ねぎ、そして生クリームのパックが覗いている。
会社のネイビーのジャケットを脱ぎ捨て、上品なハーフアップの髪をルーズなお団子にまとめ直した彼女は、すぐにマイエプロンを腰に巻いた。
昼間の光の中で見る千歳は、オフィスの「如月さん」とも、平日の夜の「だらけた千歳」とも違う、どこか懐かしい昔ながらの幼馴染の少女の面影を強く残している。
「今日はカボチャのポタージュと、ふわとろオムライスよ。ロンドンで現地のスタッフに『あいつ、毎日パブのフィッシュアンドチップスしか食べてない』なんて噂を立てられたら、日本の広報部としての私のメンツが丸潰れなんだから」
「なんだよそれ、俺がロンドンで何を食べようが広報部の業務には関係ないだろ」
俺は苦笑しながらも、彼女に指示されるままカボチャの皮を包丁で剥き始めた。
「大ありよ! 蓮は私の……私の、大事な『男友達』なんだから。変な食生活で体調崩されたら、私が実家のオバチャンに怒られるでしょ!」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張ってみせる。
口調も態度も、いつもの小生意気なツンとした仕草そのままだ。
だが、カボチャをレンジで加熱するために耐熱皿に移し替えた千歳の指先が、かすかに、だけど確実に震えているのを、俺の目は見逃さなかった。レンジの電子音が妙に大きく部屋に響く。
素直に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、「男友達の健康管理」という分厚い大義名分を盾にして、週末のプライベートな時間まで俺の部屋を支配しようとする。
昼間のオフィスでは完璧な赤の他人のフリをして俺を突き放すくせに、こうして二人きりになると、エプロンを免罪符にして俺との時間を1秒でも長く繋ぎ止めようと必死になっている。
その圧倒的なギャップと、彼女が頑なに維持しようとしている「男友達」というガラス細工の防壁の脆さに、俺の胸の奥はドギマギとした精神的狂瀾に激しく揺れ動いていた。
「ほら、カボチャが柔らかくなったら、ブレンダーでしっかり滑らかにするの! 粒が残ってたらポタージュじゃなくてただの泥団子よ!」
「言い方が過激すぎるだろ。分かった、丁寧にやるよ」
千歳は動揺を隠すようにわざと声を荒らげ、俺の手元を覗き込んできた。
カボチャの甘い香りが湯気となって二人の間に立ち上る。
言えない本心をエプロンの下に隠し、お互いに「男友達」「幼馴染」という安全な仮面を必死に被り直そうとしている。しかし、迫り来るロンドンへのタイムリミットは、そんな二人のじれったい境界線を、少しずつ、だけど確実に溶かし始めていた。




