第2章 第5話:金曜日の夜、狂い始めるリズム
金曜日の21時。ようやく一週間の重労働から解放された街は、週末の歓楽的な熱気に包まれていた。
しかし、俺の部屋の中に流れる空気は、それとは全く異なる、どこか濃密で張り詰めた熱を孕んでいた。
「――はい、今日のメニューは生姜焼きよ。蓮、キャベツの千切り、もっと細くできないの? それじゃあただの野菜のぶつ切りでしょ」
淡いピンク色のエプロンを身にまとった千歳が、フライパンを揺らしながらキッチンから鋭い声を飛ばしてくる。
会社のネイビーのジャケットを脱ぎ捨て、ブラウスの袖を肘の上まで捲り上げた彼女の姿は、昼間にオフィスの廊下で「お疲れ様です、相馬さん」と冷徹なビジネススマイルを浮かべていた「広報のエース」とは完全に別人だった。
「これでも必死にやってるんだよ。千歳、お前さっきからタレの味見、多くないか? もう三回目だぞ」
「うるさいな! 完璧な『自炊訓練』にするためには、タレの黄金比率をあんたのバカな舌に叩き込まなきゃいけないの! ロンドンに行ってから、現地のスタッフに『あいつの生姜焼き、味が薄い』なんて思われたら、幼馴染の私のプライドがズタズタになるんだからね!」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張ってみせる。
口調も、態度も、いつもの小生意気な「男友達」へのツンとした仕草そのままだ。
だが、フライパンに合わせ調味料を注ぎ入れた千歳の指先が、かすかに、だけど確実に震えているのを、俺の目は見逃さなかった。ジューッという激しい音とともに、甘辛い生姜の香りが一気に立ち上り、彼女の顔を白く曇らせる。
(……あいつ、本当は今にも泣き出しそうなんじゃないか)
カウンターキッチン越しにその横顔を見つめながら、俺の胸の奥は、ドギマギとした精神的狂瀾に激しく揺れ動いていた。
素直に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、「男友達の健康管理」という分厚い大義名分を盾にして、毎晩こうして俺の部屋に押しかけてくる。
昼間のオフィスでは完璧な赤の他人のフリをして俺を突き放すくせに、夜になればエプロンを免罪符にして、俺の生活のすべてを支配しようとする。
その圧倒的なギャップと、彼女の必死すぎる抵抗の裏にある「本音」の重さに、俺は窒息しそうなほどの愛おしさと焦燥感を覚えていた。
「ほら、お肉焼けたわよ! さっさとご飯とお味噌汁、テーブルに運んで!」
「分かった、今やるよ」
千歳は動揺を隠すようにわざと大きな声を出し、お皿に生姜焼きを盛り付けた。
言えない本心をエプロンの下に隠し、お互いに「男友達」「幼馴染」という安全な仮面を被り直そうと必死になっている。
しかし、迫り来るロンドンへのタイムリミットは、そんな二人のじれったい防壁を、内側から確実に、そして冷酷に削り取り始めていた。




