第2章 第4話:木曜日の焦燥、隠しきれない指先の震え
木曜日の15時。週の後半に入り、オフィス全体の疲れがピークに達する時間帯だ。
俺は人事部のデスクで、ロンドン支社の社宅の契約書や、ビザ申請の最終確認書類に目を通していた。
「相馬さん、海外事業部から、現地での銀行口座開設に関する案内が届いています。渡航前に日本側でできる手続きがあるそうなので、金曜日までに目を通しておいてください」
「分かりました。ありがとうございます」
後輩から書類を受け取り、引き出しの奥へと仕舞い込む。
内示が公表されてから数日。周囲からの「栄転祝い」の言葉にもすっかり慣れたが、手元に積み上がる「海外仕様」の書類の山を見るたびに、胸の奥にある鉛のような重みは増していく一方だった。
(出発まで、あと本当に三週間を切っているんだな……)
そんな俺の焦燥感を置き去りにするように、フロアの向こう側からはいつも通りのクリアな声が響いてくる。
「――如月さん、先ほど修正していただいたプレスリリースの件、これで最終承認が下りました。16時に配信をお願いします」
「承知いたしました。すぐに配信設定に入ります」
広報部のブースに目を向けると、千歳はいつも通り、一寸の隙もないネイビーのジャケットを身にまとい、知的なハーフアップの髪を揺らしながら同僚と会話を交わしていた。
完璧な他人のフリ。完璧なビジネス敬語。
誰もが信頼を寄せる「広報のエース、如月さん」の姿がそこにあった。
千歳がふと顔を上げ、こちらのフロアへと視線を走らせた。
――目が合う。
距離にして十メートルほど。オフィスを飛び交う雑音の向こう側で、俺たちの視線がまっすぐに交錯した。
千歳はいつも通り、表情を一切崩さないまま、ただの「人事部の相馬さん」に対する事務的な一瞥をくれると、すぐに手元のタブレットへと視線を戻した。
その徹底された「仮面」の冷たさに、俺は胸の奥をチクリと刺されながらも、どこか安心している自分がいた。
しかし、その夜の21時。俺の部屋のキッチンでは、昼間の冷徹な空気が嘘のように、温かい出汁の香りが立ち上っていた。
「いい、蓮? 肉じゃがの基本は、最初にしっかりお肉と野菜を炒めること。そうしないと、旨味が全体に閉じ込められないんだからね」
千歳は淡いピンク色のエプロンを身にまとい、鍋の中身を熱心に覗き込んでいた。
会社のジャケットを脱ぎ、ブラウスの袖をパキパキと捲り上げた彼女の姿は、昼間の「如月さん」とは完全に別人だ。
「分かったよ。でも、お前さっきからじゃがいもの面取り、随分とこだわってるな」
「当たり前でしょ! 面取りをサボると、煮崩れして見た目が最悪になるの。ロンドンに行ってから、現地のスタッフにあんたの汚い肉じゃがを見られたら、幼馴染の私のプライドが許さないんだから!」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張った。
口調はいつものように強気で、小生意気な「男友達」へのツンとした態度そのものだ。
だが、鍋に落とし蓋をしようとした千歳の指先が、ほんの少しだけ震えているのを、俺は見逃さなかった。
彼女が事あるごとに口にする「自炊訓練」という大義名分。それは、素直に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、残された時間を繋ぎ止めるために必死に作り上げたエプロンという名の防壁なのだ。
「……千歳、そこまで根を詰めなくても、俺だって少しは料理できるよ」
「うるさいな! あんたの『少し』なんて信用できないの! ほら、次は火加減を見てて!」
千歳は動揺を隠すようにわざと声を荒らげ、俺から視線を逸らした。
昼間のオフィスで見せる完璧な仮面と、夜の部屋で見せるエプロン姿の裏の必死さ。そのギャップに、俺の胸は締め付けられるような精神的狂瀾を抑えきれずにいた。
言えない本音を鍋の湯気の向こうに隠したまま、二人のじれったいカウントダウンは、静かに、だけど確実に進んでいく。




