第2章 第3話:昼の氷点下、夜の微熱
水曜日の午後。ロンドン赴任へのカウントダウンが確実に進む中、オフィスはいつもと変わらない慌ただしさに包まれていた。
俺は人事部の共有スペースで、海外事業部へ提出するための引き継ぎスケジュール表をバインダーに綴じていた。
カチ、カチ、と小気味よいヒールの音が静かな廊下に響く。
顔を上げると、広報部の資料を腕に抱えた千歳が歩いてくるのが見えた。
「――あ、人事部の相馬さん。お疲れ様です。来期のインターンシップ特設サイトの件、制作会社から修正案が届きましたので、後ほど共有フォルダに格納しておきますね」
「お疲れ様です、如月さん。ご対応ありがとうございます。確認次第、こちらで役員会用の資料に反映させていただきます」
千歳は非の打ち所がない完璧なビジネススマイルを浮かべ、コクリと丁寧に頭を下げた。
その瞳には、昨夜俺の部屋で「玉ねぎのみじん切りが遅い!」とエプロン姿で怒っていた面影など微塵もない。徹底された他人のフリ。これが、俺たちが社会人になってから守り続けてきた、オフィスにおける鉄のルールだった。
すれ違いざま、千歳のジャケットの袖口が、俺の腕にかすかに触れた。
ほんの一瞬、彼女が愛用している少し甘い香水の匂いが、オフィスの無機質な空気の中に溶けていく。
千歳はそのまま真っ直ぐに廊下を歩き去り、一度も振り返ることはなかった。
その数時間後。夜の21時を回った俺の部屋。
昼間の冷徹なビジネスライクが嘘のように、キッチンからはジュー、という小気味よい音が響いていた。
「ほら蓮! 火が強すぎるって言ってるでしょ! ハンバーグの表面だけ焦げて中が生焼けになっちゃう!」
「分かってるよ。これでも微調整してるんだ。お前こそ、さっきから指示が細かすぎるだろ」
千歳は淡いピンク色のエプロンを身にまとい、フライパンの中身を心配そうに覗き込んでいる。
会社のジャケットを脱ぎ、ブラウスの袖を捲り上げた彼女の姿は、昼間の「広報のエース、如月さん」とは完全に別人だった。
「当たり前でしょ。あんたに完璧な『自炊訓練』を施すって決めたんだから。ロンドンで恥ずかしい食生活を送られたら、幼馴染の私の名折れなんだからね」
千歳はふんす、と鼻を鳴らして胸を張った。
その言葉はいつものように強気だったが、フライパンを凝視する彼女の横顔には、どこか必死な色が滲んでいる。
素直に「行かないで」と言えない彼女が、「男友達の健康管理」という大義名分を盾にして、毎晩こうして俺の部屋に押しかけてくる。昼間のオフィスで見せる完璧な仮面と、夜の部屋で見せるエプロン姿のギャップに、俺の心はドギマギとした精神的狂瀾を抑えきれずにいた。
「はい、じゃあ次はソースを作るわよ。肉汁が残ったフライパンに、ケチャップとウスターソースを入れて……ほら、早く混ぜて!」
「分かった、分かったから急かすな」
言えない本心をエプロンの下に隠したまま、二人のじれったいカウントダウンは、肉の焼ける甘い香りと一緒に、静かに更けていった。




