第2章 第2話:エプロンという名の防壁、不器用な作戦開始
「自炊訓練、ですか……?」
翌日の昼休み、俺は給湯スペースで一人、昨夜の千歳の宣言を思い出しては、ため息を噛み殺していた。
「――あ、相馬さん。お疲れ様です。昨日の今日でお忙しいでしょうに、大変ですね」
不意に後ろから声をかけられ、振り返ると、そこには営業部の先輩が立っていた。
「あ、お疲れ様です。いえ、引き継ぎの段取りを組んでいるだけですので、まだ本格的には動いていませんよ」
「そうか? でも、ロンドンなんて本当に大抜擢だよな。頑張れよ」
「ありがとうございます」と、俺はいつもの完璧なビジネススマイルで頭を下げた。
周囲の社員たちは、誰もが俺を「海外へ栄転する優秀な人事部員」として見ている。その一方で、隣の部署の「完璧な広報のエース」が、昨夜我が家で顔を真っ赤にして「毎日ご飯を作ってあげる!」と大絶叫したことなど、知る由もない。
千歳は今日も、広報部のデスクで何事もなかったかのように電話対応をこなしていた。隙のないネイビーのジャケット、知的なハーフアップ。あの凛とした背中を見ていると、昨夜の大パニックがまるで幻だったのではないかと錯覚しそうになる。
だが、夜になり、俺が自分の部屋に帰ってから一時間が過ぎた頃。
ガチャリ、といつもより少し重い金属音がして、玄関のドアが開いた。
「……お邪魔します」
入ってきた千歳は、いつものようにバッグを放り投げることはしなかった。
両手でしっかりと抱えられていたのは、近くの高級スーパーの大きなビニール袋。中からは、ネギやニンジンの頭、そして何やら分厚い肉のパックが覗いている。
「本当に、来たんだな」
「当たり前でしょ。広報部の如月千歳は、一度口にした約束は絶対に曲げないの。ほら、蓮、さっさとキッチンを空けなさい!」
千歳はそう言って、会社のジャケットを丁寧にハンガーに掛けると、ブラウスの袖をパキパキと捲り上げた。そして、バッグの底から取り出したのは、淡いピンク色のマイスプロンだった。
社内では誰も見たことがない、完全なプライベートの千歳の姿。
彼女はエプロンの紐を腰の後ろできゅっと結ぶと、ふんす、と鼻を鳴らしてキッチンへと陣取った。
「いい? これはあくまで、ロンドンで飢え死にしかねない哀れな男友達のための『自炊訓練』なんだからね。勘違いしないでよ?」
「分かってるよ。お前がそんなに他人の心配をするなんて珍しいから、ちょっと驚いてるだけだ」
「うるさいな。ほら、まずは基本のハンバーグからいくわよ。玉ねぎのみじん切り、あんたがやりなさい!」
千歳はまな板の上にゴロリと大きな玉ねぎを転がした。
その指示を出す声はいつものように強気だったが、包丁を握る彼女の指先が、ほんの少しだけ震えているのを、人を見るプロである俺の目は見逃さなかった。
素直に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、「男友達の自炊訓練」という分厚いエプロンの防壁を盾にして、必死に俺との時間を繋ぎ止めようとしている。
その健気で、だけどあまりにも不器用な作戦に、俺は胸の奥がキュッと締め付けられるような愛おしさを覚えずにはいられなかった。
「分かったよ。みじん切りだな。見てろよ、これでも人事部の中では手先が器用な方なんだ」
「へえ、口だけは一人前ね。目が痛くなっても泣かないでよ?」
千歳はいつもの「男友達」としてのツンとした笑顔を浮かべ、俺の横顔を覗き込んできた。
言えない本音をエプロンの下に隠したまま、二人の「終わりの始まり」を告げる自炊訓練が、こうして本格的に動き出していた。




