第2章 第1話:仮面の裏の地殻変動、タイムリミットの幕開け
月曜日の午前9時。
社内ネットワークのトップページにある「人事・組織変更のお知らせ」という掲示板に、1本の新しい記事が投稿された。
その瞬間、オフィス全体の空気が目に見えない地殻変動を起こしたのを、俺は自席のデスクで肌に感じていた。
『海外事業部・ロンドン支社 異動内定通知(相馬 蓮)』
パソコンの画面に映し出されたその文字を、俺は冷めた目で見つめていた。
ついに、秘匿されていたタイムリミットが白日の下に晒されたのだ。
「相馬、マジかよ! ロンドン支社って、完全に出世コースじゃん!」
「うわ、寂しくなるなぁ。引き継ぎ、いつから始める?」
周囲の同僚や先輩たちが、驚きと祝福の声を上げながら俺のデスクに集まってくる。
「ありがとうございます。来週から本格的に引き継ぎに入らせていただきます」
俺はいつもの「真面目で堅実な人事部員」の仮面を完璧に維持したまま、大人の笑顔で応対した。
だが、俺の意識の半分は、フロアの斜め向かいにある広報部のブースへと向けられていた。
パーテーションの隙間から、千歳の姿が微かに見える。
彼女はパソコンの画面を凝視したまま、完全に硬直していた。いつもならテキパキと動いているその指先が、キーボードの上でピタリと止まっている。隙のないネイビーのジャケットを着た背中が、心なしか微かに震えているようにも見えた。
――千歳が、顔を上げた。
オフィスを飛び交う祝福の声や雑音をすべて置き去りにして、俺たちの視線がまっすぐに交錯する。
その瞳は、昼間の「如月さん」としての完璧なビジネススマイルでも、いつもの「男友達」を演じる軽薄な笑顔でもなかった。
見開かれた瞳の奥にあるのは、純然たる動揺、そして、底知れない大パニックの色だった。
だが、千歳はプロの広報部員だ。
わずか数秒の後、彼女は引きつりそうな顔を必死に抑え込み、何事もなかったかのように手元の資料へと視線を落とした。その徹底された「他人のフリ」が、今の俺には酷く痛々しく映った。
その日の夜、20時半。
いつもなら軽い金属音とともに静かに開くはずの俺の部屋のドアが、今夜は、まるで蹴破るかのような勢いで激しく開け放たれた。
「――蓮!!!」
入ってくるなり、千歳は玄関にバッグを叩きつけるようにして置いた。
ネイビーのジャケットはすでに形を崩し、きっちりとまとめられていたハーフアップの髪は乱れ、いくつかの後れ毛が顔にかかっている。オフィスの「完璧なエース」の仮面は、どこにもなかった。
「おかえり。相変わらず豪快な入り方だな。ほら、冷たい麦茶なら――」
「麦茶なんていらない! ロンドンって何!? 海外赴任ってどういうことよ! 私、何も聞いてないんだけど!」
千歳はリビングに踏み込んでくると、俺の胸ぐらを掴みかねない勢いで距離を詰めてきた。
その瞳には、隠しきれない焦りと、拒絶の光が激しく揺れている。
「仕事だからな。人事部の内示は公表日まで他言無用なのは、お前だって知ってるだろ」
俺は努めて冷静なトーンで答えた。
「そんなの分かってるよ! でも、ロンドンなんて遠すぎるじゃん! 飛行機で何時間かかると思ってんのよ! なんで、なんで私にだけは先に言ってくれなかったの……!」
千歳の声が、微かに震える。
彼女が頑なに築き上げてきた「男友達」という安全な防壁が、俺の海外赴任というあまりにも巨大な現実を前にして、音を立ててきしみ始めていた。
あまりのショックに、いつもの「ツンとした大人の幼馴染」の演技を維持することすら忘れて、目の前の少女はただ大パニックに陥っている。
「……期間は、最低でも3年だ。来月の頭には出発する」
俺が冷徹な事実を告げると、千歳は息を呑み、一歩後ろへとよろめいた。
3年。それは、二人の日常を完全に消失させるのに十分すぎる年月だ。
千歳は唇を強く噛み締め、何かを必死に堪えるような表情を浮かべた。フラれるのを恐れて、関係が壊れるのを恐れて、「男友達」のポジションにしがみついていた彼女にとって、このタイムリミットは、世界の終わりにも等しい衝撃だったはずだ。
しかし、千歳はそこで泣き崩れることはしなかった。
彼女はグッと拳を握りしめると、乱れた髪を乱暴にかき上げ、信じられないような言葉を口にした。
「……3年でしょ。分かったわよ。あんたみたいな生活能力ゼロの男がロンドンなんて行ったら、絶対に一週間で餓死するか、芋ばっかり食べて病気になるに決まってるわ!」
「は? 何を急に――」
「だから! 残された時間で、私が、あんたに完璧な『自炊訓練』を施してあげるわよ! 今日から毎日、私がこの部屋でご飯を作ってあげるから、あんたは黙ってそれを食べなさい!」
千歳は顔を真っ赤に染めながら、まるで宣戦布告でもするかのように大声で言い放った。
素直に「行かないで」とも「寂しい」とも言えない彼女が、パニックの果てに捻り出した、あまりにも不器用で、あまりにも愛おしい大義名分。
崩れ去ろうとする日常を繋ぎ止めるための、彼女の「奇行(手料理)」が、今、静かに幕を開けようとしていた。




