第1章 第30話:日曜日の夜、静寂が告げる終わりの始まり
日曜日の21時。週末の穏やかな時間が、音もなく指の隙間からこぼれ落ちていく。
明日から始まる新しい一週間を前に、街全体が静かな夜の底へと沈んでいくような、そんな時間帯だ。
俺は自席のダイニングチェアに腰掛け、アイロンをかけ終えたばかりのビジネスシャツを眺めていた。
隙のない、シワ一つない白い布地。明日、このシャツに袖を通した瞬間から、俺は再び「人事部の相馬さん」という完璧な戦闘服を身にまとうことになる。
そして、その明日こそが――内示が正式に全社へ公表される、運命の月曜日だった。
(……ついに、この日が来るわけか)
デスクの上に置かれたスマートフォンを手に取る。画面には何の通知も表示されていない。
隣の部屋にいるはずの千歳からのメッセージも、今夜はまだ届いていなかった。週末を一緒に過ごした後の日曜日の夜は、お互いに翌日からの「他人のフリ」に備えて、あえて距離を置くのが二人の暗黙の了解だったからだ。
もし明日、社内ネットワークの掲示板に俺の異動情報が掲載されたら。
広報部のデスクでそれを見た千歳は、一体どんな表情を浮かべるのだろう。
「来週の金曜日はハンバーグがいいな」
昨日、ソファの上で嬉しそうにそう言っていた彼女の笑顔が、脳裏をよぎる。そのささやかな未来の約束を、俺は内側から容赦なく踏みにじろうとしている。その罪悪感が、胸の奥をキリキリと締め付けた。
千歳が頑なに維持し続けてきた「男友達」という名の、絶対に安全な防壁。
それは二人にとっての居心地のいいシェルターだったが、同時に、俺がロンドンへ行くという冷徹な現実を前にしては、あまりにも脆いガラス細工に過ぎなかった。俺もまた、そのぬるま湯のような関係性に甘え、彼女の本当の想いに踏み込む覚悟を持てないまま、ここまで時間を浪費してしまったのだ。
サラリーマンとしてのステップアップとしては、これ以上ない栄転のチャンス。
だけど、その代償として失うものの大きさに、俺は出発の直前になって、ようやく本当の意味で気づかされ始めていた。
スマートフォンをベッドの脇に置き、部屋の明かりを消す。
遮光カーテンの隙間から、都会の夜のうっすらとした街灯の光が床に差し込んでいた。
カチ、カチ、と部屋の壁に掛けられた時計の針の音だけが、静寂の中で冷酷に響いている。
何も知らない千歳と、すべてを胸に隠した俺。
二人の「完璧な他人のフリ」で守られた、美しくも不器用なモラトリアムの時間は、今、静かにその最後の1秒を刻み終えようとしていた。




