第1章 第29話:土曜日の黄昏、沈黙が紡ぐ猶予
土曜日の17時を回った頃、部屋を優しく照らしていた西日はその色を一段と濃くし、リビングの壁を燃えるような茜色に染め上げていた。
昼間の旅番組はとっくに終わり、今はニュース番組が淡々と世界の出来事を報じている。
千歳はソファの上で、クッションに深く体を埋めたまま、すっかり眠気に囚われているようだった。
長い睫毛が影を落とすその寝顔は、会社で見せるあの「如月さん」の完璧な戦闘服とは対照的に、どこまでも無防備で儚い。
俺はダイニングチェアに腰掛け、そんな千歳の姿をただ静かに見つめていた。
手元には、先ほど彼女の目を盗んで隠したロンドンの生活マニュアルが、おしぼりトレーの下で静かに眠っている。
(この穏やかな時間が、もうすぐ手の中からこぼれ落ちていく……)
胸の奥にある罪悪感の重みは、部屋に満ちる夕闇とともに静かに増していくようだった。
来週の月曜日になれば、俺のロンドン赴任の内示は白日の下に晒される。
彼女は「来週の金曜日はハンバーグがいいな」と、一週間後のささやかな未来を嬉しそうに語っていた。その無邪気な約束を守ることができないかもしれないという現実が、俺の喉の奥をキリキリと締め付ける。
千歳が頑なに築き上げてきた「男友達」という安全な防壁。
それは、お互いの関係を壊さないための優しさであり、同時にそれ以上に踏み込むことを拒む冷徹な境界線でもあった。
俺もまた、その居心地の良さに甘え、彼女の本心を探ることから逃げ続けていたのだ。
物理的な距離が二人を引き裂くその時、この「他人のフリ」で守られた美しい二重生活はどうなってしまうのだろう。
「……ん……。蓮……?」
不意に、千歳が小さく声を漏らしながら、ゆっくりと目を開けた。
茜色の光の中で、少し潤んだ瞳がまっすぐに俺を捉える。
「起きたか。随分と気持ち良さそうに寝てたな」
「うう……。なんか、蓮の部屋のクッションが心地よすぎて、つい……。今、何時?」
「もう17時過ぎだ。そろそろ夕暮れだな」
千歳は体を起こし、乱れた髪を無造作にかき上げながら、窓の外の夕焼けを見つめた。
「そっか……。土曜日が終わっちゃうね」
その呟きは、いつものからからとしたトーンとは違い、どこか寂しげに響いた。
まるで、彼女もまた、この目に見えない日常の終わりを本能的に察知しているかのように。
「……なあ、千歳」
「ん? なに?」
「……いや、なんでもない。お腹が空いたなら、そろそろ夜ご飯の準備をするよ」
俺はまた、一番大切な言葉を喉の奥に押し込み、優しい嘘の笑顔を浮かべた。
「やった。じゃあ、今日は何作ってくれるの?」
千歳はいつもの「男友達」としてのツンとした笑顔を取り戻し、嬉しそうに微笑んだ。
終わりの見えないモラトリアムの砂時計は、最後の猶予を告げるように、静かに、だけど確実に砂を落とし続けていた。




