第2章 第9話:月曜日の氷点下、他人のフリの限界値
月曜日の朝。いつもと同じように、新しい一週間を告げる慌ただしい空気がオフィスを満たしていた。
俺は人事部の自席で、海外事業部から回ってきたロンドン現地の労働許可証のコピーを確認していた。
「相馬さん、お疲れ様です。引き継ぎ用のマニュアル、第一稿を共有フォルダにアップしましたので、後ほどチェックをお願いします」
「ありがとう、すぐに目を通すよ」
後輩に短く答え、画面をスクロールする。
内示が公表されてから2週目に入り、俺の周りの景色は、完全に「ロンドンへ旅立つ男」の仕様へと塗り替えられつつあった。デスクの上が整理されていくたびに、この場所から自分が切り離されていく現実が、冷徹な数字のように突きつけられる。
(……出発まで、あと二週間か)
喉の奥がジリジリと焼けるような焦燥感を覚えながら、俺はふと、フロアの向こう側へと視線を走らせた。
「――如月さん、先週のイベントのメディア露出レポート、役員会用に綺麗にまとまっていました。ありがとうございます」
「とんでもございません、部長。各メディアのフィードバックも追加してありますので、次回の戦略立案の際にご活用ください」
広報部のブースから、千歳のハキハキとした声が聞こえてきた。
一寸の隙もないネイビーのジャケットを身にまとい、知的なハーフアップの髪を揺らしながら上司と会話を交わしている。その凛とした佇まいは、誰もが信頼を寄せる「広報のエース、如月さん」そのものだ。
完璧な他人のフリ。完璧なビジネス敬語。
周囲の社員たちは、彼女が毎晩のように俺の部屋に押しかけ、ピンクのエプロン姿で「火が強すぎる!」と怒鳴り散らしていることなど、夢にも思っていないだろう。
千歳がふと顔を上げ、こちらのフロアへと視線を走らせた。
――目が合う。
距離にして十メートルほど。オフィスを飛び交う雑音の向こう側で、俺たちの視線がまっすぐに交錯した。
千歳はいつも通り、表情を一切崩さないまま、ただの「人事部の相馬さん」に対する事務的な一瞥をくれると、すぐに手元のタブレットへと視線を戻した。
その徹底された「仮面」の冷たさが、今日の俺の胸を、いつもより少し深くチクリと刺した。
昨夜、エプロンの紐を解く瞬間に見せた、あの引き留めるような指先の震え。そして、俺のためにタッパーに詰められたブロッコリーとトマトの常備菜。
昼間のオフィスで見せる完璧な赤の他人のフリと、夜の部屋で見せるエプロン姿の裏の必死さ。
その圧倒的なギャップに、俺の胸はドギマギとした精神的狂瀾を抑えきれずにいた。
素直に「寂しい」とも「行かないで」とも言えない彼女が、「男友達の自炊訓練」という大義名分を盾にして、必死に俺との時間を繋ぎ止めようとしている。
その不器用な境界線が、もう長くは持たないことを予感しながら、俺は今日も、「完璧な他人のフリ」という名の、終わりの見えたモラトリアムを演じ続けるしかなかった。




