第1章 第27話:土曜日の朝光、静寂に沈むアパートメント
土曜日の朝、カーテンの隙間から差し込む光は穏やかで、部屋の床に綺麗な四角い模様を描いていた。
平日ならアラームの音に急かされてベッドを飛び出す時間だが、今日は静寂だけが部屋を満たしている。
俺はキッチンに立ち、コーヒーメーカーに淹れたての水を注ぎ、豆をセットした。
ゴリゴリと音を立てて豆が挽かれていく間、俺の視線はダイニングテーブルの上に置かれた一冊のファイルへと向かっていた。
昨日、海外事業部との最終オリエンテーションで受け取った、ロンドン現地の生活セットアップマニュアルだ。
(……本当に行くんだな、俺は)
コーヒーの香りが漂い始める中、改めてその現実が胸に重くのしかかる。
週が明ければ、正式な社内公表が待っている。
その瞬間が訪れれば、俺がこの会社での日常から切り離されるカウントダウンは、誰もが知る事実となる。それは当然、隣の部屋に住む千歳の耳にも届くはずだ。
ピンポーン、と不意にインターホンが鳴った。
平日の夜のように勝手に鍵を開けて入ってくるのではなく、土曜日のこの時間に訪ねてくるのは少し珍しい。
ドアを開けると、そこにはゆったりとした白のニットにロングスカートを合わせた、完全な私服姿の千歳が立っていた。
手には、近所の有名なベーカリーの小さな紙袋を下げている。
「よ、お疲れ。焼き立てのクロワッサン、買いすぎちゃったからお裾分け」
千歳はフフッと笑うと、俺の返事を待たずに器用に脇をすり抜けて部屋へと上がってきた。
「千歳、わざわざどうしたんだよ。休みの日くらいゆっくり寝てればいいのに」
「何言ってるの。美味しいパンは温かいうちに食べるのが鉄則でしょ。ほら、蓮、ちょうどコーヒー淹れてたみたいだし、一緒に食べよ」
千歳はダイニングテーブルに紙袋を置き、慣れた手つきでマグカップを棚から取り出した。
昼間の光の中で見る千歳は、オフィスの「如月さん」とも、平日の夜の「だらけた千歳」とも違う、どこか懐かしい昔ながらの幼馴染の少女の面影を強く残している。
「あ、蓮、またテーブルの上に難しそうな書類置いてる。本当に真面目なんだから。たまには週末くらい、仕事のことは完全に忘れたら?」
千歳がマニュアルの表紙をチラリと見ようとする。
俺は心臓が一瞬跳ねるのを感じながら、自然な動作でそのファイルの上からおしぼりのトレーを重ねて隠した。
「いや、ただの読み物だよ。大したことじゃない」
「ふーん? まあいいけどさ。早くコーヒー淹れてよ、お腹空いちゃった」
千歳はソファに腰掛け、嬉しそうに紙袋からパンを取り出し始めた。
何の疑いもなく、この部屋の空気を吸い、リラックスしている千歳。この穏やかな週末の時間が、来週も、来月も、その先もずっと当たり前に続いていくと信じて疑っていない。
俺は淹れたてのコーヒーを二つのマグカップに注ぎ、リビングへと運んだ。
クロワッサンを小さくちぎって口に運び、「ん〜、やっぱりここのは最高!」と目を細める彼女の横顔を、俺はただ、網膜に焼き付けるようにじっと見つめ続けることしかできなかった。
迫り来る月曜日。そして、その先に待つ日常の崩壊。
言えない秘密を胸に抱えたまま、俺たちの最後の週末が、静かに幕を開けようとしていた。




