第1章 第25話:金曜日の午後、秘密裏のオリエンテーション
金曜日の15時。オフィスの喧騒から少し離れた本社の特別会議室に、俺はいた。
重厚な木製のドアを閉めると、廊下のざわめきが一気に遮断され、静粛な空気が部屋を満たす。
「――以上が、ロンドン支社への着任直後における、現地スタッフとの面談スケジュールおよび労務環境の引き継ぎ手順となります。相馬さん、何か不明な点はありますか?」
長机の向こう側に座る海外事業部の担当者が、英文でびっしりと書かれた資料をめくりながら、淡々としたトーンで問いかけてきた。
手元に配られたアジェンダには、渡航スケジュールの詳細、ロンドンでの緊急連絡網、そしてビザの最終受け取り手順が克明に記されている。
「いえ、大丈夫です。手順に関しては把握しました。現地法人の就業規則についても、事前に目を通してあります」
「素晴らしい。さすが人事部で実績を積まれているだけあって、準備が非常にスムーズで助かります。週明けの月曜日に正式な社内公表が出れば、いよいよ本格的に動くことになりますから、週末はしっかり休んで英気を養っておいてください」
「ありがとうございます」と、俺はいつもの「真面目で堅実な人事部員」の仮面を崩さず、静かに頭を下げた。
オリエンテーションが終了し、資料をバインダーにまとめて会議室を出る。
廊下の窓から差し込む西日は、もうすっかり初夏の力強さを帯びていて、床に長い影を落としていた。
(これで、本当にすべての手続きが完了したわけか……)
胸の奥にある鉛のような重みが、さらに一段と増していくのを感じる。
週が明ければ、内示は白日の下に晒される。この会社で俺が「ただの人事部員」として、そして千歳が「ただの広報部員」として、完璧な他人のフリを演じ続けられるモラトリアムは、この週末を挟んで、あと実質的に数日しか残されていない。
自席に戻るため、広報部のフロアの横を通りかかる。
千歳は今、デスクで後輩の作成したプレスリリースの原稿を熱心にチェックしていた。手元のペンを動かしながら、的確にアドバイスを送るその表情は、誰もが頼りにする「広報のエース、如月さん」そのものだ。
その凛とした後ろ姿を遠くから見つめながら、俺は胸の奥で、ジリジリと焼けるような焦燥感と罪悪感に苛まれていた。
今夜もきっと、あの女は俺の部屋の鍵を開け、「一週間乗り切った!」とソファにひっくり返るのだろう。その、世界の誰も知らない無防備な千歳を独占できる時間が、俺の身勝手なキャリアアップによって強制終了しようとしている。
千歳がふと顔を上げ、通路を歩く俺のほうへと視線を走らせた。
――目が合う。
千歳はいつも通り、表情を一ミリも崩さないまま、ただの「人事部の相馬さん」に対する事務的な一瞥をくれると、すぐに手元の原稿へと視線を戻した。
その徹底された「仮面」の冷たさが、今の俺にはどうしようもなく切なく、そして愛おしかった。
言えない秘密のカウントダウンがすぐそこまで迫っていることを、彼女はまだ何も知らない。終わりの見えた日常のモラトリアムを維持するため、俺は今日も、「気楽な男友達」という名の優しい嘘を胸に抱き、自席へと歩みを進めた。




