第1章 第24話:金曜日の朝、迫り来る週末の足音
金曜日の朝。一週間の締めくくりを迎えたオフィス街は、どこか浮き足立ったような、特有の解放感に包まれ始めている。
しかし、俺の胸の中にある「ロンドン赴任」という秘密は、周囲の軽やかさとは対照的に、鉛のような重さを増して居座り続けていた。
「相馬さん、おはようございます。本日の15時からの特別会議室、海外事業部との渡航前最終オリエンテーションの席次表とアジェンダです。事前に目を通しておいていただけますか」
出社するなり、後輩の女性社員が声を潜めてデスクに資料を置いていく。
「おはよう。ありがとう、すぐに確認するよ」
俺はいつもの「人事部の相馬さん」の冷静なトーンで答え、資料を受け取った。
アジェンダに並ぶのは、渡航スケジュールの最終確認、現地での緊急連絡体制、そしてビザ受け取りの段取り。水面下で進められてきた手続きは、これで本当にすべて完了することになる。
週が明ければ、正式な社内公表。この机で「他人のフリ」をしながら千歳を見送る日々も、本当に残り少なくなっていた。
(……今日のオリエンテーションが終われば、もう後戻りはできないな)
パソコンの画面を立ち上げ、メールの処理を始めながらも、視線は時折、フロアの向こう側へと向かってしまう。
「――如月さん、先ほど提出していただいた週末のイベントに関するプレスリリース、これで配信設定をお願いします」
「承知いたしました。すぐに手配いたします。ありがとうございました」
広報部のブースから、千歳のクリアな声が響いてきた。
いつもと変わらない、一寸の隙もないネイビーのジャケットを身にまとい、知的なハーフアップの髪を揺らしながら同僚と会話を交わしている。その表情には、一切の動揺も、迷いもない。完璧な「広報のエース」の姿だ。
その姿を遠くから見つめながら、俺は胸の奥で、ジリジリと焼けるような焦燥感を覚えていた。
昨夜、俺の部屋のローテーブルで「蓮の塩唐揚げ、マジで最高!」と笑っていたあの少女と、今目の前で完璧な敬語を操るこの有能な広報部員。
千歳が頑なに維持している「男友達」という安全な防壁を、俺の海外赴任という現実がもうすぐ内側から粉々に砕いてしまう。
千歳がふと顔を上げ、こちらのフロアへと視線を走らせた。
――目が合う。
距離にして十メートルほど。オフィスを飛び交う雑音の向こう側で、俺たちの視線がまっすぐに交錯した。
千歳はいつも通り、表情を一切崩さないまま、ただの「人事部の相馬さん」に対する事務的な一瞥をくれると、すぐに手元のタブレットへと視線を戻した。
その徹底された「仮面」の冷たさが、今日の俺の胸を、いつもより少し深くチクリと刺した。
言えない秘密の重みを感じながら、俺は今日も、「完璧な他人のフリ」という名の、終わりの見えた日常を演じ続けるしかなかった。




