第1章 第23話:木曜日の夜、いつもの座席と小さな違和感
木曜日の21時を過ぎた頃。
一足先に帰宅した俺は、スーツの上着をクローゼットに掛け、ネクタイを緩めて深く息を吐き出した。
キッチンに立ち、冷たい麦茶をグラスに注いで一息ついていると、ガチャリと静かな部屋にシリンダーが回る音が響いた。
「ただいまー……。あー、今週の木曜日、マジで一週間の中で一番体力が底を突く気がする……」
入ってくるなり、千歳は玄関の棚にバッグを置くと、のろのろとした足取りでリビングへ進んできた。
腕にはネイビーのジャケットが引っ掛けられており、きっちりとまとめられていたハーフアップの髪はすでに解かれ、少し乱れた毛先が肩に散らばっている。オフィスの「如月さん」としての仮面を脱ぎ捨てた、完全なオフの姿だ。
「おかえり。木曜日は折り返しを過ぎて一番疲れが出るからな。ほら、冷たい麦茶だ」
俺はグラスをローテーブルに置いた。
千歳はソファにどさりと倒れ込み、長い足を伸ばしてリラックスした姿勢をとった。
「ありがとー……。生き返る。ねえ蓮、今日のご飯は何? 私、もうお腹と背中がくっつきそうなんだけど」
「今日は、残っていた鶏肉で簡単に塩唐揚げを揚げておいた。あとはキャベツの千切りだ」
「やったぁ! 蓮の塩唐揚げ、ニンニクが効いてて最高なんだよね!」
千歳は嬉しそうに目を輝かせ、ソファから起き上がってローテーブルの前に座り直した。
唐揚げを一口頬張り、「ん〜〜! 美味しいっ!」と両頬を押さえて身悶えしている。その無邪気な笑顔は、昼間にオフィスの廊下で完璧なビジネススマイルを浮かべていた有能な広報部員とは完全に別人だ。
俺は自分の分のグラスを手に取り、彼女の斜め向かいに腰を下ろした。
楽しそうに食べる千歳の姿をじっと見つめながら、胸の奥にある「ロンドン赴任」という秘密の重みが、じわじわと広がっていくのを感じていた。
正式な社内公表まで、あと数日。
週が明ければ、この部屋での何気ない、だけど何よりも愛おしい日常は終わりを告げる。そのカウントダウンの針を、千歳はまだ何も知らない。
「ねえ、蓮。さっきからなんか静かだけど、どうかした? 本当に最近、妙に考え事してるよね」
千歳が唐揚げを口に含んだまま、不思議そうな瞳を俺に向けてきた。
「……いや、別に。上半期の評価シートの取りまとめが忙しくて、ちょっと頭が固くなってるだけだ」
俺はいつものように、感情を完璧にコントロールした声で嘘をついた。
「ふーん? 人事部も大変だねぇ。あんまり根を詰めすぎないでよ。蓮が倒れたら、私の夜ご飯担当がいなくなっちゃうんだからさ」
千歳はケラケラと笑いながら、麦茶を飲み干した。
「男友達」という完璧な防壁の内側で、何の疑いもなく笑う千歳。
俺はその笑顔が眩しくて、そしてどうしようもなく切なくて、ただ小さく頷くことしかできなかった。
終わりの見えたモラトリアムの時間は、二人の知らないところで、静かに、だけど確実にすり減り続けていた。




