第1章 第22話:木曜日の焦燥、手元の英文
木曜日の朝。
オフィスに差し込む光は昨日よりも少し強く、俺のデスクの上に積まれた書類の白さを際立たせていた。
俺は自席で、ロンドン現地の労働法に関する英文の解説書をパソコンの画面に表示させ、スクロールしていた。
「相馬さん、海外事業部から『渡航前オリエンテーション』の最終案内が届いています。金曜日の15時から、本社の特別会議室で行うそうです」
後輩が声を潜め、プリントアウトされたタイムスケジュールを手渡してくる。
「分かった。スケジュールは押さえてある。ありがとう」
俺はいつもの「人事部の相馬さん」のトーンを維持したまま、書類を受け取って引き出しの奥へと仕舞い込んだ。
内示を受けてから三週間以上が経過し、水面下での動きはいよいよ最終局面に差し掛かっている。
週が明ければ、正式な社内公表。
つまり、俺がこのオフィスで千歳と「完璧な他人のフリ」を続けられるタイムリミットは、実質的にあと数日しか残されていないということだ。
(……来週の今頃には、すべてが白日の下に晒されているんだな)
キーボードを叩く指先が、ほんの少しだけ冷たくなるのを感じる。
仕事では、他部署の人間関係や適性を見抜く「プロ」として立ち回っているはずなのに、いざ自分のこと、それも一番近くにいる幼馴染のこととなると、驚くほど往生際が悪くなる。
「――如月さん、先ほどの海外向けプレスリリースの翻訳チェック、終わりました。これで配信設定をお願いします」
「承知いたしました。すぐに海外事業部と連携して手配いたします」
フロアの向こう側から、千歳の凛とした声が聞こえてきた。
視線を向けると、彼女はいつも通り、一寸の隙もないネイビーのジャケットを身にまとい、知的なハーフアップの髪を揺らしながら上司と会話を交わしている。
『海外事業部と連携』という単語が、今の俺の胸をチクリと刺した。
千歳がふと顔を上げ、こちらのフロアへと視線を走らせた。
――目が合う。
距離にして十メートルほど。オフィスを飛び交う雑音の向こう側で、俺たちの視線がまっすぐに交錯した。
千歳はいつも通り、表情を一切崩さないまま、ただの「人事部の相馬さん」に対する事務的な一瞥をくれると、すぐに手元のタブレットへと視線を戻した。
その徹底された「仮面」の冷たさが、今の俺にはどうしようもなく切なく、そして愛おしかった。
夜になれば、あの女は俺の部屋で「イチゴのタルト最高!」と笑うのだ。
その落差の終わりがすぐそこまで来ていることを、彼女はまだ何も知らない。
言えない秘密の重みを感じながら、俺は今日も、「完璧な他人のフリ」という名の、終わりの見えた日常を演じ続けるしかなかった。




