第1章 第21話:甘いご褒美、仮面の裏の微熱
水曜日の21時半。
俺は一足先に帰宅し、部屋の冷蔵庫の一段を丸ごと空けて待っていた。昼間の給湯スペースで交わした、千歳からの極小の囁きを律儀に守るためだ。
ガチャリ、とシリンダーが回る音がして、いつものように鍵が開く。
「ただいまー……! 蓮、言った通り買ってきてあげたよ、イチゴのタルト!」
入ってくるなり、千歳は嬉しそうに白い紙箱を掲げてみせた。
ネイビーのジャケットはすでに片方の腕に引っ掛けられており、ブラウスの第一ボタンは外されている。一歩部屋を跨いだ瞬間から、彼女の「広報のエース」としての仮面は、音を立てて剥がれ落ちていく。
「おかえり。本当に買ってきたんだな。ほら、冷蔵庫のスペースはちゃんと空けてあるぞ」
「わーい、さすが蓮! 話が分かる男友達だねぇ」
千歳は慣れた手つきでバッグを床に置き、キッチンに立つ俺の横へとトコトコと歩いてきた。
紙箱を冷蔵庫に収めると、彼女はそのままソファへと倒れ込み、大きく背伸びをした。
「あー、今日も疲れたぁ……。でも、このタルトのために15時のプレスリリース配信も、その後の問い合わせ対応も全部乗り切ったの。自分へのご褒美がないと、マジでやってらんない」
「はいはい、お疲れ。お前、本当に食べ物のためならいくらでも頑張れるな」
「失礼な。美味しいものは正義だよ? ほら、蓮も一緒に食べるでしょ。コーヒー淹れて!」
千歳はソファからひょこっと顔を出し、子供のように無邪気な笑顔を俺に向けた。
オフィスの誰も知らない、俺だけが独占している千歳の本当の姿。
俺はキッチンでコーヒーメーカーをセットしながら、彼女のその横顔をじっと見つめていた。
何の疑いもなく、この部屋の空気を吸い、リラックスしている千歳。この甘くて穏やかな時間が、来週も、来月も、ずっと当たり前に続いていくと信じて疑っていない。
(……このタルトを一緒に食べられるのも、あと何回だろうな)
コーヒーの香りが漂い始める中、俺は胸の奥にある秘密の重さに、改めて押しつぶされそうになっていた。
内示の公表日まで、あとほんのわずか。
タイムリミットの足音は、確実に、そして冷酷に近づいてきている。
「蓮、コーヒーまだー? タルトが待ちきれないんだけど!」
「今淹れてる。せっかちだな、お前は」
俺は淹れたてのコーヒーを二つのマグカップに注ぎ、切り分けたタルトと一緒にリビングへと運んだ。
千歳は「やったー!」と歓声を上げ、フォークを手に取る。その幸せそうに目を細める姿を、俺はただ、網膜に焼き付けるようにじっと見つめ続けることしかできなかった。




