第1章 第20話:夕闇のコーヒーブレイク、崩せない距離感
水曜日の16時。オフィスの窓外からは西日が傾き始め、床に長い影を落としていた。
夕方の気怠い空気が漂う中、俺は気分転換を兼ねて、フロアの隅にある給湯スペースへと向かった。
自動販売機で缶コーヒーを買い、プルタブを引く。パチリという小さな音が、静かな空間に響いた。
一口含んだ苦味が、ビザ申請や現地の労務書類のチェックで疲れた脳を少しだけ覚醒させてくれる。
「――あ、相馬さん。お疲れ様です」
不意に後ろから声をかけられ、振り返ると、そこにはマグカップを手にした千歳が立っていた。
手元には広報部で使う用のプレスリリースの校正紙が握られている。隙のないテーラードジャケットに、知的なハーフアップ。相変わらず、完璧な「広報のエース」の顔だ。
「お疲れ様です、如月さん。そちらも休憩ですか」
「ええ。ちょっと文字ばかり見ていて目が疲れてしまって。人事部の方もお忙しそうですね」
千歳は流れるような所作でドリップコーヒーのパックをセットしながら、非の打ち所がないビジネススマイルを俺に向けた。
周囲には数人の他部署の社員が通りがかっており、俺たちの会話に耳を貸す様子もない。完全に、ただの「真面目な人事部員」と「優秀な広報部員」の、模範的な世間話の風景だ。
千歳がコーヒーを淹れ終え、マグカップを両手で包み込む。
そのすれ違いざま。
「……今日、帰りにコンビニでイチゴのタルト買ってくから。冷蔵庫、スペース空けといてね」
周囲に絶対に聞こえないほどの極小の囁き声。
顔の筋肉すら動かさず、完璧な他人のフリ(ビジネス敬語のトーン)を維持したまま、彼女は俺だけに伝わる「夜の暗号」を落としていった。
俺が小さく目線で応じると、千歳は「では、失礼します」とコクリと頭を下げ、何事もなかったかのように廊下を歩き去っていった。その背中はどこまでも凛々しく、社内の男たちの視線を無自覚に集めている。
(……本当に、大した演技力だよ)
残された缶コーヒーの温もりを感じながら、俺は内心で小さなため息をついた。
あいつは何も知らない。このスリリングで、だけど絶対的に安全な「男友達」としての二重生活が、明日も、来週も、その先もずっと続いていくと信じて疑っていない。
もし、この鉄のルールで守られた日常が、あと数日で強制終了すると知ったら。
千歳は、その時もあの完璧な笑顔を保っていられるのだろうか。
言えない秘密の重みは、いよいよ限界まで膨らみつつある。迫り来るタイムリミットの足音を胸の奥で聞きながら、俺は今日も、「気楽な男友達」という名の嘘の裏側で、終わりの見えたモラトリアムを演じ続けるしかなかった。




