第1章 第19話:すれ違う思惑、交わらない視線
水曜日の朝。
オフィスに差し込む光は心なしか白々としていて、俺のデスクの上に積まれた書類の山を無機質に照らしている。
「相馬さん、お疲れ様です。海外事業部から、現地法人の就業規則に関する最終稿が届きました。内容に問題がなければ、長谷川部長の決裁をもらってください」
「了解した。すぐに目を通すよ」
後輩の女性社員から受け取ったクリアファイルを開く。
そこには、英語で細かく記されたロンドン支社の雇用条件や、現地スタッフ向けのコンプライアンスマニュアルが綴じられていた。内示を受けてからの約三週間、こうして自分の手元に集まってくる資料がすべて「海外仕様」に染まっていくたびに、俺の心は静かに、だけど確実に摩耗していく。
正式な社内公表まで、あとわずか数日。
引き継ぎのタイムラインも完璧に組まれ、俺がこのデスクから離れるための準備は万全だった。しかし、その「完璧な仕事」が進めば進むほど、俺の胸の奥にある罪悪感は、暗い底溜まりのように重さを増していく。
「――如月さん、先ほど提出していただいたプレスリリースの件ですが、広報部長からの最終承認が下りました。予定通り15時に配信をお願いします」
「承知いたしました。すぐに配信設定に入ります。ありがとうございました」
オフィスの向こう側から、千歳のクリアな声が響いてきた。
ふと顔を上げると、彼女はいつも通り、一寸の隙もないネイビーのジャケットを身にまとい、知的なハーフアップの髪を揺らしながら同僚と会話を交わしている。その表情には、一切の動揺も、迷いもない。完璧な「広報部のエース」の姿だ。
その姿を遠くから見つめながら、俺は胸の奥で、ジリジリと焼けるような焦燥感を覚えていた。
昨夜、俺の部屋のローテーブルで「蓮の親子丼、マジで最高!」とスプーンを片手に身悶えしていたあの少女と、今目の前で完璧な敬語を操るこの有能な広報部員。
その二つの姿の間に、俺自身が境界線を引き、必死にバランスを保とうとしている。
だが、その境界線自体が、もうすぐ強制的に消滅しようとしているのだ。
(もし俺がロンドンに行ったら、あいつのこの完璧な『仮面』を剥がせる奴は、社内に誰もいなくなるんだな……)
そう考えた瞬間、言いようのない独占欲と、胸を焦がすような寂しさが同時に湧き上がってきた。
幼馴染として、あるいは「気楽な男友達」として、千歳の一番無防備な姿を独占してきたのは俺だ。その特権的なポジションが、物理的な距離によって引き裂かれる。その恐怖は、俺が想像していた以上に根深く、重いものだった。
千歳がふと顔を上げ、こちらのフロアへと視線を走らせた。
――目が合う。
距離にして十メートルほど。オフィスを飛び交う雑音の向こう側で、俺たちの視線がまっすぐに交錯した。
千歳はいつも通り、表情を一切崩さないまま、ただの「人事部の相馬さん」に対する事務的な一瞥をくれると、すぐに手元のタブレットへと視線を戻した。
その徹底された「仮面」の冷たさが、今日の俺の胸を、いつもより少し深くチクリと刺した。
言えない秘密の重みは、いよいよ限界まで膨みつつある。迫り来るタイムリミットの足音を胸の奥で聞きながら、俺は今日も、「完璧な他人のフリ」という名の、終わりの見えた日常を演じ続けるしかなかった。




