第1章 第18話:夜食の温もり、仮面の裏の小さな執着
「……なあ、千歳。お腹空いてるんだろ。何か適当に作るから座ってろ」
俺はカウンターキッチンに立ち、冷蔵庫を開けながら声をかけた。
「あ、ずるい! 私が一番お腹空くタイミングを見計らってたでしょ。何作ってくれるの?」
ソファからひょこっと顔を出した千歳が、現金なほど目を輝かせる。
「冷蔵庫に鶏肉と卵があるから、親子丼でいいか。三つ葉はないけど、海苔ならある」
「最高! 蓮の作る親子丼、出汁が優しくて大好きなんだよね。あ、ご飯は少なめで、頭多めでお願い!」
「注文が多いな、男友達を何だと思ってるんだ」と口では呆れつつ、手際よく小鍋に出汁を張り、玉ねぎを刻んでいく。
トントン、と包丁がまな板を叩く規則正しい音が、静かな夜の部屋に心地よく響く。
千歳はソファの背もたれにあごを乗せ、俺の料理する後ろ姿をじっと眺めていた。
「ねえ、蓮。こうやって蓮がご飯作ってくれて、私がそれを待ってる時間って、なんか子供の頃を思い出すよね。昔はさ、どっちかの親が遅いと、よくどっちかの家で一緒にご飯食べてたじゃん」
「……そうだったな。お前、昔から偏食が激しくて、ピーマンを俺の皿に黙って移してただろ」
「あはは、バレてた? だって蓮、文句言いながらも全部食べてくれるんだもん。あの頃から蓮は私の頼れる男友達だったってわけ」
千歳は懐かしそうに目を細めて笑う。
その屈託のない笑顔を見つめながら、俺は鶏肉を小鍋に投入した。
男友達。
彼女が事あるごとに口にするその言葉は、俺たちを繋ぎ止める最も強固な鎖であり、同時に、それ以上の関係に進むことを拒む冷徹な防壁だ。
幼馴染という安全な境界線の内側で、彼女は安心しきっている。この温かい日常が、明日も、来週も、その先もずっと当たり前に続いていくことを一ミリも疑っていない。
(……もし俺が、ここからいなくなったら)
小鍋の中でグツグツと泡立つ出汁を見つめながら、胸の奥がキリキリと痛む。
俺がロンドンへ赴任すれば、このキッチンで料理を作ることも、千歳の「美味しい」という笑顔を見ることもできなくなる。あいつの「安全基地」は、俺の身勝手なキャリアアップによって、跡形もなく消え去ってしまうのだ。
「はい、お待たせ。熱いうちに食えよ」
「わあい! いただきまーす!」
どんぶりをローテーブルに置くと、千歳は嬉しそうにスプーンを手に取った。
とろとろの卵と出汁の染みた鶏肉を口に運び、「ん〜〜! 美味しいっ!」と両頬を押さえて身悶えしている。
その幸せそうな横顔を、俺は自分の分のどんぶりを持ったまま、ただ静かに見つめていた。
この愛おしい日常の破片を、あといくつ、俺は手元に残していけるのだろう。
何も知らない千歳の笑顔の裏で、俺の胸の中の砂時計は、最後の猶予を告げるように、サラサラと音を立てて落ち続けていた。




