第1章 第17話:夜の防壁、解かれる「仮面」
火曜日の21時前。
俺は一足先に退社し、自分の部屋でスーツのジャケットをハンガーに掛け、ネクタイを外していた。
カチカチに固まった首を回すと、骨が鈍い音を立てる。パソコンの画面を閉じても、脳裏にはロンドン赴任へ向けた各種手続きのタイムラインが焼き付いたままだ。
(あと、本当に数日だな……)
引き出しの奥にある「海外赴任内定通知」の重みが、日を追うごとに増していく感覚がある。
そんな焦燥感を紛らわせるように、台所で冷たい炭酸水のペットボトルを取り出したその時だった。
ガチャリ、と静かな部屋にシリンダーが回る金属音が響き、ドアが開いた。
「うーーー、やっと終わったぁぁ……! 今日の役員室まわりの書類提出、マジで神経すり減りすぎて胃に穴が空くかと思った……!」
盛大なため息とともに、バッグをクローゼットの横へ放り投げたのは千歳だった。
入ってくるなり、彼女は腕に引っ掛けていたネイビーのジャケットをソファの背もたれに雑に放り投げ、そのまま床にズルズルと座り込んでしまった。
「おかえり。相変わらず、入ってくるなりの愚痴が豪快だな。ほら、冷たい炭酸水だ」
「わーい、炭酸水! さすが蓮、私の求めてるものを完璧に分かってるじゃん」
千歳は床に座ったまま、俺が差し出したグラスを両手で受け取り、勢いよく喉を鳴らして飲み干した。
ぷはっ、と長い息を吐き出す。
ブラウスの第一ボタンはすでに外され、きっちりとまとめられていたハーフアップの髪は、歩きながらヘアゴムを外したのか、少し乱れて肩に散らばっている。
そこには、さっきまでオフィスの廊下で「お疲れ様です、相馬さん」と完璧なビジネススマイルを浮かべていた「広報部のエース」の面影は微塵もない。
「ねえ蓮、今日の夕方、人事部のパーテーションのところですれ違ったじゃん?」
千歳が空になったグラスをローテーブルに置きながら、ニヤニヤと悪戯っぽく笑った。
「ああ。お前、クリアファイルの端でパーテーションをトントン叩いていっただろ。誰かに見られたらどうするんだ」
「いーじゃん、誰も見てなかったもん。あの時の蓮の、一瞬『あ、ヤバ』って顔をしてキーボードを叩く手が止まったの、最高に面白かったなぁ」
千歳は楽しそうにゲラゲラと笑った。
その姿は、お世辞にも上品とは言えない。だけど、これが俺たち二人が十数年かけて作り上げてきた、絶対に安全な「幼馴染」の日常そのものだった。
「会社での『仮面』をずっと被ってるとさ、本当に顔の筋肉が固まっちゃうんだよね。だから、ここに来て蓮の顔を見て、こうやってダラダラしてないと、明日からの労働に耐えられないわけ」
千歳はソファに背中を預け、リラックスした様子で足を伸ばした。
その無防備な横顔を、俺はカウンターキッチン越しにじっと見つめていた。
あいつは、何の疑いもなく、この居心地の良い日常のモラトリアムが来週も、来月も、ずっと続いていくと信じて疑っていない。
「男友達」という完璧な防壁の内側で、俺という安全基地を確信しているからこそ、そんな無防備な姿を晒せるのだ。
もし、この砂の城がもうすぐ強制的に崩壊すると知ったら、千歳はどんな顔をするのだろう。
その現実を告げられないまま、俺は今日も、「気楽な男友達」という名の嘘の裏側で、静かに近づくタイムリミットの足音を聞いていた。




