第1章 第16話:夕暮れの窓辺、揺らぐ境界線
火曜日の18時。オフィスの窓外は、ゆっくりと濃紺の夜空へと移り変わり、街灯がポツポツと輝き始めていた。
定時を過ぎた人事部のフロアでは、いくつかのデスクに明かりが残り、キーボードを叩く静かな音だけが響いている。
俺は自席で、海外事業部から送られてきたロンドン現地の税制や保険手続きに関する最終確認のメールに目を通していた。
「相馬さん、ビザの発給予定日が確定しました。来週の月曜日、正式な内示公表の翌日にはパスポートの受け取りをお願いします」
海外事業部の担当者からの内線連絡に、俺は手元のメモ帳に小さく日付を書き込んだ。
「了解しました。スケジュールは空けておきます」
受話器を置き、小さく息を吐き出す。
内示の公表日まで、本当にあと数日。外堀は完全に埋まり、俺がこの会社での日常から切り離される瞬間は、もうすぐそこまで迫っていた。この机も、このフロアも、来週の今頃には別の誰かに引き継がれている。
(……このまま、何も言わずに公表の日を迎えていいのか)
胸の奥にある罪悪感のような澱が、ジワジワと広がっていく。
人事として、社員の異動や環境の変化に伴うメンタルケアの大切さは誰よりも理解しているはずなのに、いざ一番身近な幼馴染のこととなると、俺は驚くほど卑怯で臆病になっていた。
「あ、如月先輩。明日の役員会議用の資料、広報部長の最終チェック終わりました!」
「ありがとう。じゃあ、それを持って今から役員室前の受付に届けてくるね」
フロアの間仕切りの向こう側から、千歳のハキハキとした声が聞こえてきた。
書類を抱えて歩き出す彼女の姿が、パーテーションの隙間から一瞬だけ見える。隙のないネイビーのジャケット、上品なハーフアップ。誰からも信頼される「広報のエース」の顔だ。
千歳は真っ直ぐに廊下を進み、人事部のフロアの横を通り抜けていく。
その時、彼女は周囲に他の社員がいないことを確認するように、ほんの一瞬だけ視線をこちらに走らせた。
――目が合う。
距離にして、わずか数メートル。
千歳はいつも通り、表情を一切崩さないまま、ただの「人事部の相馬さん」に対する事務的な一瞥をくれた。だが、そのすれ違いざま、彼女は手に持っていたクリアファイルの端で、俺のデスクのパーテーションをトントン、と軽く叩いた。
本当に、周囲の誰も気づかないような、一瞬の、だけど確実な合図。
「夜、いつもの部屋でね」とでも言うような、二人だけの秘密の暗号。
パーテーションに残ったかすかな振動と、彼女が通り過ぎた後に残った、少し甘い香水の匂い。
俺は手元のキーボードに視線を戻したが、胸の奥の鼓動は確実に速くなっていた。
あいつは、何の疑いもなく、この「スリリングだけど絶対的に安全な二重生活」が明日も、来週も、ずっと続いていくと信じている。
「男友達」という完璧な防壁の中で、俺という安全基地を確信しているからこそ、そんな悪戯ができるのだ。
もし、その砂の城がもうすぐ跡形もなく崩れ去ると知ったら、千歳はどんな顔をするのだろう。
その現実を告げられないまま、俺は今日も、「完璧な他人のフリ」という名の、終わりの見えたモラトリアムを演じ続けるしかなかった。




