第1章 第15話:静粛な廊下、すれ違う背中に寄せる想い
火曜日の午後。社内の空気は引き締まり、各部署がそれぞれのタスクに追われていた。
俺は人事部の共有スペースにある複合機の前で、来期に向けた人員配置の最終確認書類をバインダーに綴じていた。
カチ、カチ、と小気味よいヒールの音が静かな廊下に響く。
足音だけで、それが誰であるかが分かってしまう自分に、内面で苦笑する。
「――あ、人事部の相馬さん。お疲れ様です」
角を曲がってきたのは、広報部の資料を腕に抱えた千歳だった。
今日も一寸の隙もないネイビーのジャケットをスマートに着こなし、髪は上品なハーフアップにまとめられている。周囲の社員が見れば、誰もが憧れる「広報部のエース、如月さん」そのものの姿だ。
「お疲れ様です、如月さん。そちらの資料、かなり重そうですね。広報部までお持ちしましょうか」
「いえ、大丈夫です。これくらい、毎日のことですから。お気遣いありがとうございます」
千歳は非の打ち所がない完璧なビジネススマイルを浮かべ、コクリと丁寧に頭を下げた。
その瞳には、昨夜俺の部屋で「脳みそが限界!」とソファにひっくり返っていた面影など微塵もない。徹底された他人のフリ。これが、俺たちが社会人になってから守り続けてきた鉄のルールだった。
すれ違いざま、千歳のジャケットの袖口が、俺の腕にかすかに触れた。
ほんの一瞬、彼女が愛用している少し甘い香水の匂いが、オフィスの無機質な空気の中に溶けていく。
千歳はそのまま真っ直ぐに廊下を歩き去り、一度も振り返ることはなかった。
その凛とした後ろ姿を見送りながら、俺は手元のバインダーを握る手に、無意識に力を込めていた。
(……この他人のフリも、あと少しで終わるんだな)
正式な社内公表まで、あと1週間を切っている。
カウントダウンの針は、俺たちの知らないところで、確実に、そして冷酷に進み続けていた。
何も知らない千歳の背中が、今の俺にはどうしようもなく切なく、そして遠く感じられてならなかった。




