第4章 第39話:最後の夜、エプロンのないキッチンの前で
月曜日の21時。
オフィスの張り詰めた喧騒から解放され、俺たちはいつものように、俺の部屋のドアを開けた。
ガチャリ、と鍵を閉める音が静まり返ったリビングに響き渡り、日常の戦場と俺たちの境界線を完全に隔絶する。
部屋の明かりをつけると、そこにはからっぽのキッチンが、ただ静かに佇んでいた。
かつて二人の日曜日や月曜日を彩っていた、香ばしい胡麻油の匂いも、強火で爆ぜる小気味よい音も、ここには一切存在しない。
「海外生活のための自炊訓練」という、二人が寄り添うための最大にして唯一の大義名分は、もうどこを探しても見当たらなかった。
千歳はカバンを床に置き、ベージュのトレンチコートを脱いでハンガーにかけた。
彼女はオフィスのネイビーのジャケットをすでに脱いでおり、白ブラウスの第一ボタンを少しだけ緩めていた。そして、一寸の隙もなくきっちりとまとめられていたハーフアップの髪を、細い指先でゆっくりと解きほぐしていく。
艶やかな黒髪が柔らかな波を打って彼女の華奢な肩へと流れ落ちる、その瞬間。
俺たちの「他人のフリ」の時間は終わり、一人の男と、一人の女としての剥き出しの現実が、リビングの空気の中に溢れ出した。
「……本当に、何にもないね」
千歳はからっぽのコンロを見つめたまま、ローテーブルの端に腰掛けてぽつりと言った。
いつもならあの淡いピンク色のエプロンを腰に巻き、「ほら蓮、火加減を完璧に覚えなさいよね!」と鼻を鳴らしていたはずの強気な幼馴染の面影は、そこにはない。大義名分をすべて失った彼女は、その防壁を剥ぎ取られて、どこか不器用そうに佇んでいる。
「ああ。料理の名目なんて、もうどこにもないな」
俺は少し掠れた声で応じ、彼女のすぐ隣、肩が触れ合うほどの距離に腰掛けた。
「あのさ、蓮……」
千歳は俯いたまま、膝の上で細い指先をぎゅっと絡ませ、声を震わせた。
「料理を教える言い訳がなくなったら、私、あんたの前にどんな顔して座ってたらいいのか、急に怖くなることがあるの。会社ではあんなに冷たいビジネス敬語を使って、完璧な『如月さん』を演じてるのに、この部屋に戻ってあんたの体温に触れた瞬間、自分が全部溶けてなくなっちゃいそうになるから……」
ゆっくりと顔を上げた千歳の大きな瞳は、涙を堪えたように狂おしいほどに潤んで揺れていた。
髪の隙間から覗く彼女の小さな耳たぶは、オフィスの無機質な蛍光灯の下で見せるどんな表情よりも、鮮やかで濃密な桜色に染まりきり、じわじわと熱を帯びている。
俺はもう、胸の奥で暴れ狂うドギマギとした精神的狂瀾を抑え込むことができなかった。
絡み合う彼女の細い指先を、俺の手のひらで優しく、だけど固く包み込む。
「怖がる必要なんてないだろ。大義名分なんて最初から、俺たちが一緒にいるための口実に過ぎなかったんだ」
俺は千歳の潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめ、低い声で言葉を紡いだ。
「エプロンがなくても、料理がなくても、俺はお前にここにいてほしい。明日からのオフィスで、どれだけ他人のフリをしなきゃいけなくても、この部屋の本当の俺たちが、お互いの揺るぎない帰る場所なんだから。だから、一緒にその不器用な未来へ行こう」
「蓮……あんた、本当にずるい、バカ……」
千歳は泣き出しそうな笑顔を浮かべると、重ね合わせた手のひらから伝わる圧倒的な熱量に身を委ねるように、俺の胸元へと深く、深く縋りついてきた。
安全な逃げ道を完全に失った世界の真ん中で、俺たちのじれったいモラトリアムは、今、本編最後の夜明かりへと向かって、どこまでも深く、熱く重なり合おうとしていた。




