第4章 第40話:火曜日の始まり、新しい境界線と秘密の糸(本編完結)
火曜日の午前8時45分。
五月の爽やかな朝の光が、オフィスビルのガラス張りのエントランスに差し込み、大理石の床を眩しく照らし出していた。
昨日までの焦燥も、行き場をなくして夜の部屋で立ち往生していたじれったいモラトリアムも、すべてはあのからっぽのキッチンの前で一つの確信へと溶け去った。
俺は通勤客の波に紛れながら、自動ドアをくぐってフロアへと歩みを進める。
数歩前を行くのは、一寸の隙もないネイビーのジャケットを凛と着こなし、知的にまとめられたハーフアップの髪を揺らす後ろ姿――如月千歳だ。
「海外生活のための自炊訓練」という、二人が寄り添うための最大にして唯一の大義名分は、もうこの世界のどこにも残っていない。クローゼットの奥であの淡いピンク色のエプロンが眠ったままの日常が、今、新しく始まろうとしていた。
料理を教える名目なんてなくても、俺たちはもう、お互いの体温なしではいられない境界線へと踏み出している。
胸の奥を絶え間なく揺さぶるドギマギとした精神的狂瀾は、朝の冷房の風を浴びて、静かで圧倒的な強さを持った熱量へと変わっていた。
セキュリティゲートの手前、千歳が手元に抱えたファイルを直すフリをして、ふっと後ろを振り返った。
――交錯する、二人の視線。
誰もがただの火曜日の日常として通り過ぎていくエントランスの真ん中で、俺たちの視線だけが、見えない糸で結ばれたかのように真っ直ぐに絡み合う。
千歳は、俺が自分を見つめていたことに気づくと、表情こそ完璧な冷徹なビジネススマイルを崩さなかったが、まっすぐに俺を射抜いたその大きな瞳の奥を、狂おしいほどにゆらゆらと揺らめかせた。
そして、ハーフアップの隙間から覗く彼女の白い耳たぶが、オフィスの明るい光の下で、隠しきれない鮮やかな桜色に染まっていくのを、俺の目ははっきりと捉えていた。
(……行ってくるわよ、相馬さん)
彼女の瞳が、悪戯っぽく、だけど深い愛おしさを湛えてそう告げているようだった。
千歳はすぐに前を向き、エレベーターホールへと歩調を速めて進んでいく。
だが、抱えたファイルを愛おしそうにぎゅっと胸元に抱きしめる彼女の指先は、もう二度と解けることのない秘密の糸を、確かに手繰り寄せていた。
大義名分をすべて失ったからこそ、この徹底された「他人のフリ」は、二人だけの最高に不器用で、最高に熱い絆の証となる。
オフィスの喧騒へと溶けていく彼女の背中を見つめながら、俺は一歩、新しい日常の未来へと足を踏み出した。
二人のじれったい混線は、誰にも見えない場所で、どこまでも深く、どこまでも熱く、永遠に続いていく。




