第4章 第38話:月曜日の給湯室、鉄の仮面を剥ぎ取る残響
15時15分。
オフィスに漂う、張り詰めた月曜日の空気。頭を冷やすための口実として、俺はマグカップを片手に、フロアの最奥にある給湯室へと向かった。
静かに鉄のドアを開けると、先客が一人、背中を向けて立っていた。
一寸の隙もないネイビーのジャケット。知的できっちりとまとめられたハーフアップの髪。
広報部のエース、如月千歳だ。
彼女は自動コーヒーマシンの前で、カップに注がれる黒い液体をじっと見つめていた。
「あ……」
ドアが閉まる音に気づいて振り返った千歳の大きな瞳が、一瞬だけ丸くなった。
誰もいない、狭い給湯室。外の喧騒から隔絶されたその空間に、マシンの駆動音だけが低く響いている。
「お疲れ様です、相馬さん」
千歳はすぐにいつものビジネススマイルを作り、完璧な敬語で一礼した。
だが、その声は午前中のデスクの時よりも、明らかに上擦っていた。
「ああ、お疲れ様、如月さん」
俺も冷静を装って声を返し、彼女の隣のウォーターサーバーへと歩み寄った。
すぐ傍に並ぶと、彼女の纏う少し甘い香水の匂いが、オフィスの乾いた空気の中で一気に濃度を増した。昨夜、料理もエプロンもない部屋で、俺の胸に顔を埋めて「あんたの熱が足りなくておかしくなりそうだった」と泣きそうになっていた彼女の体温が、強烈な残像となって脳裏にフラッシュバックする。
千歳はコーヒーを手に取ったが、そのまま部屋を出ていこうとはしなかった。
ドアの方をチラリと気にするように視線を泳がせ、誰も来ないことを確信すると、ふう、と小さく張り詰めていた息を吐き出した。
「……もう、本当に心臓が持たないわよ」
ぽつりと溢されたのは、ビジネス敬語ではない、いつもの千歳の声だった。
彼女はコーヒーカップを両手で固く包み込んだまま、俯くようにして肩をすくめた。
「午前中、指先が触れた瞬間から、頭の中がずっとあんたの体温でいっぱいになっちゃって。フロアで『如月さん』って冷たく呼ばれるたびに、昨夜のあの抱擁が頭の中で暴れて、まともにプレスリリースが読めなくなるの……」
千歳はゆっくりと顔を上げ、少し潤んだ瞳で俺を睨むように見つめた。
完璧に着こなしているはずの「鉄の仮面」は、今や内側からの熱量でもろくも溶け去ろうとしている。ハーフアップの隙間から覗く彼女の小さな耳たぶは、オフィスの白い蛍光灯の下で、隠しきれない鮮やかな桜色に染まっていた。
「あんた、なんでそんなに平気な顔をしてられるわけ? 私ばっかり、おかしくなってるみたいじゃない……」
大義名分をすべて失い、本当の意味で想いを通じてしまったからこそ、この完璧な「他人のフリ」という秘密のゲームは、二人の理性を極限まで狂おしくかき乱す。誰も来ない隠れ家のような空間で、千歳のドギマギとした精神的狂瀾が、二人の数センチの隙間をじりじりと焼き尽くそうとしていた。




