第4章 第37話:月曜日の再戦、完璧な仮面と指先の暗号
月曜日の午前8時45分。
オフィスビルの自動ドアをくぐり、大理石のフロアに足を踏み入れた瞬間、乾いた冷房の空気が俺のブレザーを揺らした。
週末のあの濃密な、料理もエプロンもない部屋で肩を寄せ合い、お互いの未来を誓い合った時間から、再び日常の歯車が回り出す。
俺は人事部のデスクにつき、PCの電源を入れて新期の評価データを画面に展開した。
しかし、キーボードの上で踊る俺の指先は、これまでとは全く違う、静かで圧倒的な熱量に支配されていた。
終わりの決まったロンドン赴任という砂時計が消え去り、夜の部屋での不器用な大義名分すら完全に失った今、このオフィスで「ただの同僚」を演じることは、もはや苦痛ではなく、二人だけの秘密のゲームのようだった。
(……千歳。今日も、完璧な『如月さん』だな)
広報部のブースに視線を向けると、そこには一寸の隙もないネイビーのジャケットを羽織り、知的にまとめられたハーフアップの髪を揺らす彼女の姿があった。
彼女は周囲の社員からの質問に「はい、そちらのプレスリリースに関しましては、本日中に修正を……」と、冷徹なほどに完璧なビジネス笑顔で応じている。
完璧に崩壊しかけているはずの「他人のフリ」の裏側で、彼女もまた、あの週末の体温をその胸の奥に深く秘めているのだろう。
「――相馬さん、お疲れ様です。広報部から今週のメディアスケジュールに関する共有データをお持ちいたしました」
カツカツと小気味よいヒールの音が俺のデスクの前で止まり、凛とした声が降ってきた。
顔を上げると、そこには完璧な「広報部のエース」が立っていた。周囲の誰もが、俺たちをただの業務連絡を行う二人の社員としてしか見ていない。
「ありがとう、如月さん。ちょうど今、人事部側のスケジュールを確認していたところだ」
「恐れ入ります。共有フォルダーにも格納してありますので、後ほどご確認ください」
言葉遣いは完璧なビジネス敬語。表情も冷徹なほどに知的だ。
だが、差し出されたクリアファイルを俺が受け取ろうとしたその瞬間、彼女の白く細い指先が、俺の指に微かに、だけど確実に触れた。
ピクッ、と千歳の身体が小さく跳ね上がる。
千歳は咄嗟に表情を崩さなかったが、まっすぐに俺を見つめるその大きな瞳の奥が、激しく、そして切なげにゆらゆらと揺らめいた。
さらに、ハーフアップの髪の隙間から覗く彼女の小さな耳たぶが、オフィスの白い蛍光灯の下で、隠しきれない綺麗な桜色に染まっていくのを、俺の目は見逃さなかった。
「……じゃあ、如月さん。すぐに目を通しておくよ」
「はい。よろしく、お願いいたします」
千歳はそれだけ言うと、深く一度だけ瞬きをし、翻るように去っていった。
すれ違いざま、オフィスの無機質な空気の中に、彼女の愛用している少し甘い香水の匂いが鮮烈に溶けていく。
安全な仮面をすべて失い、お互いを特別に想い合っているという絶対的な事実を知ってしまった俺たちにとって、この徹底された「他人のフリ」は、二人を繋ぐ世界で最も強固な秘密の糸へと姿を変えていた。




