第4章 第35話:土曜日の午後、重ね合わせた掌と永遠のモラトリアム
土曜日の15時。
南向きの窓から差し込む気だるい午後の日差しが、俺の部屋のフローリングに長い光の帯を落としていた。
いつもならキッチンから聞こえてくるはずの、野菜を刻むリズミカルな音や、強火で油が爆ぜる小気味よい音は、やはり今昼もどこにもない。
ロンドン赴任の白紙化に伴い、俺たちの関係を辛うじて繋ぎ止めていた「海外生活のための自炊訓練」という大義名分は、跡形もなく消え去ってしまった。クローゼットの奥に仕舞い込まれた淡いピンク色のエプロンは、もう二度と、彼女の細い腰に巻かれることはないのだろう。
それなのに、千歳は俺のすぐ隣、肩が常に触れ合う距離でローテーブルの前に座っている。
「……ねえ、蓮」
ハーフアップを完全に解き、肩へと艶やかに落とされた黒髪の隙間から、千歳がぽつりと声を溢した。
彼女の大きな瞳は、窓の外を流れる白い雲をじっと見つめている。その瞳の奥には、これまでの激しい精神的狂瀾を乗り越え、不器用ながらも一つの確固たる答えに辿り着いた、穏やかで深い熱情がゆらゆらと揺らめいていた。
「月曜日が来たら、またあの戦場みたいなオフィスが始まるね」
「ああ。また『相馬さん』と『如月さん』に戻らなきゃな」
「うん……。でもね、私、もう怖くないよ」
千歳はゆっくりとこちらを振り向き、潤んだ瞳で真っ直ぐに俺を見つめた。
彼女の小さな耳たぶは、午後の暖かな光を浴びて、隠しきれない鮮やかな桜色に染まっている。
「どんなにフロアで完璧な他人のフリをして、冷たいビジネス敬語を使っていても、私の心臓の秒針は、ずっとあんたの体温だけを刻んでる。あのオフィスという箱庭の中で、誰も知らない秘密の糸で、私と蓮はいつでも繋がってるんだから」
千歳は膝の上で丸めていた細い指先をゆっくりとほどき、俺の手のひらの上に、自らの掌をそっと、だけど吸い付くように重ね合わせてきた。
昨日までの震えはもうない。そこにあるのは、互いの輪郭を確かめ合うような、驚くほど熱く、力強い確信の熱量だった。
大義名分という名の免罪符をすべて失い、幼馴染という安全な殻を完全に踏み砕いた。
行き着いたこの袋小路の最果てで、俺たちは「ただの同僚」という最高に不器用な他人のフリを抱えたまま、生涯をかけて解くことのない、新しい関係の未来へと足を踏み出そうとしていた。
夕暮れが近づく部屋の静寂の中で、重なり合った二人の掌の温もりは、どこまでも深く、どこまでも熱く、完全に混線して一つに溶け合っていった。




