第4章 第34話:土曜日の朝、カーテンの隙間と新しい体温
土曜日の午前9時。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな光が、静まり返ったリビングを白く染め上げていた。
いつもなら激しいオフィスの戦場に身を置いている時間。だが、今朝の俺の部屋には、これまでの週末とは決定的に違う時間が流れていた。
キッチンには火が入っていない。香ばしい胡麻油の匂いも、スパイシーな調味料の残り香もここにはない。
「海外生活のための自炊訓練」という、二人がこの部屋に集まるための唯一の大義名分は、もうどこを探しても見当たらなかった。淡いピンク色のエプロンは、クローゼットの奥に仕舞われたままだ。
だが、俺の胸の奥を絶え間なく揺さぶるドギマギとした精神的狂瀾は、昨日までの焦燥とは異なる、静かで圧倒的な熱量を帯びてトク、トクと拍動していた。
「……蓮、いつまで寝てるのよ。さっさと起きなさいよね」
パタパタというスリッパの音と共に、キッチンから千歳が姿を現した。
彼女はオフィスのネイビーのジャケットを羽織っておらず、柔らかなサマーニットにロングスカートという無防備な私服姿。そして何より、一寸の隙もなくきっちりとまとめられているはずのハーフアップの髪が完全に解かれ、艶やかな黒髪が波を打って彼女の華奢な肩へと流れ落ちている。
お互いに想いを全て曝け出し、安全な「幼馴染の男友達」という防壁を粉々に踏み砕いた夜を越えた。だからこそ、料理も何もないこの空間に並び立つ剥き出しの現実が、二人の理性を激しくかき乱す。
「千歳……お前、朝から何してんだよ」
「何って……ただ、お茶淹れてただけよ。料理を教える大義名分がなくなったからって、私がここに来ちゃいけない理由なんて、どこにもないでしょ」
千歳はいつものようにふんす、と鼻を鳴らして強がってみせる。
だが、湯呑みをテーブルに置く彼女の白く細い指先は微かに震えていた。ハーフアップの隙間から覗く小さな耳たぶは、朝の光の下で隠しようのない鮮やかな桜色に染まり、じわじわと熱を帯びている。
俺はベッドから立ち上がり、ローテーブルの前に座る千歳の少し隣に腰掛けた。
一歩。あと数センチ詰めれば、その肩を抱き寄せられる距離。
「会社での『他人のフリ』、もう完璧には無理かもしれないな」
俺の言葉に、千歳はビクッとその華奢な肩を揺らし、俯いたままサマーニットの裾をぎゅっと握りしめた。
「……無理でいいわよ。あんな冷たいビジネス敬語で『相馬さん』って呼ぶたびに、私の心臓、限界だったんだから。月曜日になったら、オフィスでまた『如月さん』の仮面を被るけど……でも、その裏側の本当の私は、全部あんたのものなんだから」
ゆっくりと顔を上げた千歳の大きな瞳は、涙を堪えたように狂おしいほどに潤んで揺れていた。
大義名分を完全に失った世界の真ん中で、俺たちは新しい距離感の名前をようやく見つけつつあった。歪なモラトリアムの袋小路を抜け、引き返せない最終局面へと向かう俺たちの混線は、朝の静寂の中で、どこまでも深く、熱く重なり合おうとしていた。




