第4章 第33話:金曜日の夜、名前のない鍵と開かれる未来
金曜日の20時。
一週間の喧騒をすべて吸い込んだ夜の街を、俺は急ぎ足で駆け抜けていた。
アパートの階段を二段飛ばしで上り、いつものドアの前に辿り着く。
ポケットから取り出した鍵をシリンダーに差し込もうとしたその瞬間、ドアが内側から静かに、だけど躊躇なく開かれた。
「……遅い」
廊下の淡い光の中に佇んでいたのは、千歳だった。
オフィスのネイビーのジャケットはすでに脱ぎ捨てられており、白ブラウスの第一ボタンが緩められ、艶やかな黒髪はハーフアップを解かれて肩のラインへと柔らかに広がっている。
部屋の中に一歩足を踏み入れると、そこにはかつて金曜日の夜を支配していた、スパイシーな調味料の匂いも、中華鍋が爆ぜる小気味よいリズムも、一切存在しなかった。
「海外生活のための自炊訓練」という、二人が寄り添うための最大にして唯一の大義名分は、もうこの空間のどこにも残っていない。クローゼットの奥で眠る淡いピンク色のエプロンは、きっともう二度と、彼女の腰に巻かれることはないのだろう。
それなのに、千歳は当たり前のように俺の部屋の鍵を開け、俺の帰りを待っていた。
「千歳……」
「何よ、そんなに驚いた顔して。……エプロンも料理もないって、ちゃんとメッセージで言ったでしょ」
千歳はいつものようにふんす、と鼻を鳴らして強がってみせる。
だが、俺を見つめる大きな瞳は、部屋の薄明かりの中で狂おしいほどに潤んで揺れていた。ハーフアップの隙間から覗く小さな耳たぶは、隠しきれない鮮やかな桜色に染まり、じわじわと熱を帯びている。
俺はバッグを床に置き、彼女との距離を完全にゼロにするように、その華奢な肩を強く引き寄せた。
「あ……」
短い吐息とともに、千歳の身体が俺の胸元へと完全に重なる。
大義名分という名の防壁をすべて失い、本当の意味でお互いを特別に想い合っているという事実だけを抱えた俺たちにとって、この抱擁はあまりにも直接的で、重く、二人の理性を容赦なく焼き尽くしていく。
「会社で、あんたの姿が見えないだけで、頭の中が全部めちゃくちゃになっちゃったのよ……。他人のフリなんて、もう限界。私、明日からの週末も、その次の月曜日も、ずっとあんたの隣にいたい……」
千歳は俺のシャツの生地を細い指先でぎゅっと握りしめ、泣き出しそうな声を震わせた。
オフィスでの「如月さん」の冷徹な仮面は、俺の体温に触れた瞬間に完全に溶け去り、一人の少女としての剥き出しの熱情だけが、二人の間で激しく脈動している。
安全な逃げ道を完全に失った世界の真ん中で、俺たちのじれったいモラトリアムは、引き返せない最終局面の扉を完全に押し開け、新しい日常の夜明かりへと向かって深く、熱く混線し続けていた。




