第4章 第32話:金曜日の夕暮れ、デスクの空白と数文字の輪郭
17時45分。
窓の外には、一週間の終わりを告げる美しいグラデーションの夕焼け空が広がっていた。
オフィス内には、金曜日の定時退社を意識したどこか浮き足立った空気が漂い、キーボードを叩く音もいつもより軽やかに響いている。
だが、俺の胸の奥で暴れ狂うドギマギとした精神的狂瀾は、週末を前にして最高潮に達しようとしていた。
ロンドン赴任というタイムリミットが消滅し、料理を教えるという大義名分も、あの淡いピンク色のエプロンも失った。そんな歪なモラトリアムの袋小路の中で、俺たちは昨夜、深夜の街灯の下で互いの体温を激しく求め合い、抱きしめ合った。
もう、ただの幼馴染にも、ただの同僚にも戻れるわけがない。
(……千歳)
人事部のデスクから広報部のブースへと視線を走らせる。
だが、そこにあるはずの千歳の席は、すでにからっぽだった。ネイビーのジャケットの影も、知的にまとめられたハーフアップの髪も見当たらない。彼女は15時からの外部ミーティングに出席するため、直行直帰のスケジュールになっていることを思い出した。
一日中、同じフロアで「他人のフリ」を演じることすら許されない金曜日。
姿が見えないからこそ、昨夜俺のシャツをぎゅっと握りしめていた彼女の細い指先の感触が、そして髪の隙間から覗いていた鮮やかな桜色の耳たぶの熱量が、頭の中で狂おしいほどにフラッシュバックする。
手元のスマートフォンが、ポケットの奥で小さく震えた。
画面を点灯させると、広報部の共有チャットではなく、個人宛てのメッセージに「如月千歳」の名前が表示されていた。
『今、ミーティングが終わったところ。……今夜は、エプロンも料理も、本当に何にもないよ?』
その、不器用なくせにストレートな数文字の輪郭を見つめた瞬間、俺の心臓はドクンと大きな音を立てて跳ね上がった。
いつもなら「ほら蓮、早く帰って準備しなさいよね!」と生意気にツンツンしてくるはずの彼女が、大義名分を完全に失った今、こうして剥き出しの熱情と覚悟をこちらにぶつけてくる。
完璧に崩壊しかけている仮面の下で、千歳もまた、一刻も早く俺の体温に触れたくて立ち往生しているのだ。
俺は急いでPCをシャットダウンし、デスクの上の書類を片付け始めた。
安全な逃げ道をすべて失った世界の真ん中で、俺たちのじれったい混線は、引き返せない最終局面の扉を叩くように、どこまでも深く、熱く加速し続けていた。




