第4章 第31話:金曜日の朝、ほどけた境界線と重なる歩幅
金曜日の午前8時40分。
昨夜、深夜の街灯の下で激しく抱き合い、お互いの剥き出しの渇望を確かめ合ったあの濃密な時間から、数時間。
街は昨日までの雨を完全に吸い込み、少し汗ばむような五月の強い日差しがオフィスのガラス張りのエントランスを眩しく照らしていた。
俺は通勤客の波に乗りながら、自動ドアをくぐって大理石のフロアへと足を踏み入れる。
数歩前を行くのは、一寸の隙もないネイビーのジャケットを羽織り、知的にまとめられたハーフアップの髪を揺らす後ろ姿――広報部のエース、如月千歳だ。
昨夜、夜風の中でハーフアップの髪を振り乱し、俺のシャツの生地をぎゅっと握りしめて「蓮の匂いが、足りない」と泣きそうになっていた少女の輪郭は、今や完璧なビジネスの鎧の下に格納されている。
だが、俺の胸の奥で爆ぜるように拍動し続けるドギマギとした精神的狂瀾は、オフィスの冷房の風を浴びても、一ミリも静まる気配を見せなかった。
(……今日の夜が明ければ、週末だ)
「海外生活のための自炊訓練」という、二人が寄り添うための唯一の免罪符を失い、クローゼットの奥であの淡いピンク色のエプロンが眠ったままの日常。
料理を教える名目なんてどこにもないのに、俺たちはもう、お互いの体温なしでは息もできないところまで境界線を踏み砕いてしまっていた。
セキュリティゲートを抜ける直前、千歳が手元に抱えたファイルを直すフリをして、ふっと後ろを振り返った。
――交錯する、二人の視線。
誰もがただの金曜日の日常として通り過ぎていくエントランスの真ん中で、俺たちの視線だけが、じりじりと焦げ付くような熱量を孕んで真っ直ぐに絡み合う。
千歳は、俺が自分を見つめていたことに気づくと、表情こそ完璧な冷徹なビジネススマイルを崩さなかったが、まっすぐに俺を射抜いたその大きな瞳の奥を、狂おしいほどにゆらゆらと揺らめかせた。
さらに、ハーフアップの隙間から覗く彼女の白い耳たぶが、オフィスの明るい光の下で、隠しきれない鮮やかな桜色に染まっていくのを、俺の目ははっきりと捉えていた。
彼女はすぐに前を向き、エレベーターホールへと歩調を速めて消えていった。
だが、抱えたファイルを不自然なほど強く、ぎゅっと胸元に抱きしめるように握り直している彼女の指先は、確かに昨日までの戸惑いを捨て、新しい関係の覚悟を宿して震えていた。
大義名分をすべて失ったからこそ、この徹底された「他人のフリ」の裏側で、俺たちの歪な混線は、いよいよ引き返せない最終局面へと向かって加速し続けていた。




