第4章 第30話:木曜日の深夜、夜風に爆ぜる秒針と駆け寄る足音
23時15分。
千歳からの『蓮の匂いが、足りない』という、限界を迎えた本音が綴られたメッセージを受け取ってから、俺はただじっとしていられず、上着をひったくって夜の街へと飛び出していた。
街灯がアスファルトを等間隔に白く照らす、静まり返った路地裏。
夜風が俺の頬を冷たく叩き、ブレザーの襟を激しくなびかせる。しかし、俺の胸の奥で燻り続けるドギマギとした精神的狂瀾は、どれほど夜風に晒されようとも、一向に冷めるどころか、爆ぜるような熱量を帯びて加速していた。
ロンドン赴任という終わりの決まっていた砂時計が砕け散り、料理を作るエプロンという名の大義名分をすべて失った。
その不器用なモラトリアムの袋小路を抜けた俺たちを待っていたのは、オフィスの衆人環視の中で演じ続ける完璧に崩壊しかけている「他人のフリ」と、その反動で理性を焼き尽くそうとする圧倒的な渇望だった。
(……千歳!)
駅へと続く直線の坂道に差し掛かったその時、前方からカツカツと、激しく夜の静寂を切り裂くヒールの音が聞こえてきた。
街灯の淡い光の中に飛び出してきたのは、ネイビーのジャケットを少し着崩し、バッグを肩にかけた千歳の姿だった。
残業を終えてオフィスを出たそのままの姿。しかし、いつもなら一寸の隙もなく知的にまとめられているはずのハーフアップの髪は、走ってきた風のせいで少しだけ解け、艶やかな黒髪が夜風に美しく広がっている。
「蓮……っ!」
俺の姿を見つけた瞬間、千歳の大きな瞳が狂おしいほどに潤んで揺れた。
彼女は走る速度を緩めず、むしろさらに足速に、俺の胸元へと真っ直ぐに飛び込んできた。
ドサッ、という鈍い音と共に、彼女の華奢な身体の重みと、サマーニット越しにも伝わるほど熱い体温が、俺の全身へとダイレクトに衝突する。
ハーフアップの隙間から覗く彼女の小さな耳たぶは、夜の冷たい空気のなかに晒されているはずなのに、隠しきれない鮮やかな桜色に染まりきり、じわじわと熱を帯びていた。
「バカ、なんで、外にいるのよ……っ」
千歳は俺のシャツの生地を細い指先でぎゅっと、引きちぎらんばかりの力で握りしめ、俺の胸に顔を埋めたまま声を震わせた。
オフィスでの「如月さん」の完璧な鉄の仮面は、俺の体温に触れた瞬間に、完全に破片となって粉々に砕け散っている。
「お前がそんなメッセージ送ってくるからだろ。……俺だって、からっぽの部屋にいたら、お前の熱が足りなくておかしくなりそうだった」
「……ずるい。本当に、あんたはずるいわよ……」
千歳は泣き出しそうな声を漏らしながら、俺の胸元にさらに深く縋りついてきた。
料理という大義名分をすべて失い、本当の意味でお互いを特別に想い合っているという事実を曝け出してしまったからこそ、この夜の戦場の終わりで交わされる抱擁が、二人の理性を狂おしいほどにかき乱す。
安全な逃げ道を完全に失った世界の真ん中で、俺たちのじれったい混線は、午前零時を告げる秒針の音を置き去りにしながら、どこまでも深く、どこまでも熱く、激しく脈動し続けていた。




