第4章 第29話:木曜日の夜、からっぽのキッチンと残された微熱
木曜日の21時。
オフィスの激務を終えてアパートのドアを開けた瞬間、部屋を包んでいたのは、かつてないほどの静寂だった。
コンロに火が入る音も、香ばしい胡麻油の匂いも、ここには存在しない。
タイムリミットという名の砂時計が砕け散り、料理を作るエプロンという名の大義名分をすべて失った今、このキッチンは、本来の無機質な姿を取り戻している。
(……今日は、来ない)
広報部が大きなプレスリリースを控えているため、千歳が今夜遅くまで残業になることは、昼間のフロアで共有スケジュールを見たときに知っていた。
いつもなら、このからっぽの空間を見て「独り立ちのための自炊訓練なんだから、いない方が捗るに決まってるだろ」と自分に言い聞かせていたはずだった。
だが、今の俺の胸の奥で暴れ狂うドギマギとした精神的狂瀾は、そんな都合のいい言い訳をすべて焼き尽くしていた。
昨夜、このリビングで、薄手のブラウス一枚になった彼女の柔らかな肩を強く抱き寄せた、あの圧倒的な体温の記憶。
今朝、解いた黒髪を不器用に整えながら、鏡越しに俺を見つめて耳たぶを真っ赤に染めていた彼女の潤んだ瞳。
「他人のフリ」という脆いガラス細工の防壁を自らの手で粉々に踏み砕き、お互いを特別に想い合っているという剥き出しの事実を曝け出してしまったからこそ、ただ彼女がいないだけのこの1Kの部屋が、途方もなく広く、そして寒く感じられる。
スマートフォンが、ポケットの奥で短く震えた。
画面を開くと、そこには「如月千歳」からの、たった一言だけのテキストメッセージが表示されていた。
『今、やっと仕事終わった。……蓮の匂いが、足りない』
短い文字列から溢れ出してきた、千歳の圧倒的な甘さと切なさに、俺の心臓はドクンと激しく跳ね上がった。
いつもなら「残業で疲れたから、明日のお昼はおごりなさいよね!」と生意気にツンツンしてくるはずの彼女が、大義名分を失った今、オフィスを出た瞬間にこれほど剥き出しの渇望をぶつけてくる。
ハーフアップの髪をほどき、夜の街へと駆け出そうとしているであろう彼女の、真っ赤に染まった耳たぶの輪郭が鮮烈に脳裏にフラッシュバックする。
安全な逃げ道を完全に失った袋小路のなかで、一人残された部屋の静寂すらも、俺たちのじれったい混線をどこまでも深く、狂おしいほどに煮詰め続けていた。




