第4章 第28話:木曜日の午前、エントランスの数歩と見えない糸
木曜日の午前8時40分。
雨上がりの澄んだ青空から差し込む強い日差しが、オフィスビルのガラス張りのエントランスを眩しく照らし出していた。
俺は通勤客の波に紛れながら、自動ドアをくぐって大理石のフロアへと足を踏み入れた。
数メートル前を行くのは、ネイビーのジャケットを凛と着こなし、知的にまとめられたハーフアップの髪を揺らす後ろ姿――千歳だ。
つい一時間前まで、俺の部屋の鏡の前で、ブラウスのボタンを少し緩め、解いた黒髪を不器用に整えていたあの少女の面影は、今や完全に「広報部のエース、如月さん」の完璧な鎧の下に格納されている。
だが、俺の胸の奥で爆ぜるように脈動し続けるドギマギとした精神的狂瀾は、オフィスの冷房の風を浴びても、少しも静まる気配を見せなかった。
終わりの決まった砂時計が消え去り、夜の部屋でのエプロンという免罪符すら失って、ついにその華奢な肩を強く抱き寄せた昨夜の記憶。重なり合った体温の残照が、俺が歩を進めるたびに、理性をじりじりと焦がしていく。
千歳は社員証をセキュリティゲートにかざし、スマートに通路を抜けた。
その直後、彼女は手元に抱えたファイルの位置を直すフリをして、ほんのわずかだけ、後ろを振り返った。
――交錯する、二人の視線。
通勤途中の社員たちが忙しなく行き交うエントランスの真ん中で、俺たちの視線だけが、見えない糸で結ばれたかのように真っ直ぐに絡み合う。
千歳は、俺が自分の後ろ姿をじっと見つめていたことに気づくと、一瞬だけビクッとその華奢な肩を揺らした。
表情こそ、一寸の隙もない冷徹なビジネススマイルを崩さなかったが、まっすぐに俺を射抜いたその大きな瞳の奥が、激しく、そして狂おしいほどにゆらゆらと揺らめいた。
さらに、ハーフアップの隙間から覗く彼女の白い耳たぶが、オフィスの明るい光の下で、隠しきれない鮮やかな桜色に染まっていくのを、俺の目ははっきりと捉えていた。
千歳はすぐに前を向き、エレベーターホールへと歩調を速めて消えていった。
だが、彼女の右手が、抱えたファイルを不自然なほど強く、ぎゅっと胸元に抱きしめるように握り直されているのを、俺は見逃さなかった。
大義名分を完全に失い、お互いを特別に想い合っているという剥き出しの事実を知ってしまったからこそ、この衆人環視の中での「他人のフリ」は、限界を超えた熱量で二人の内側を焼き尽くそうとしている。日常の戦場が本格的に始まる直前、俺たちの歪な混線は、誰にも見えない場所でどこまでも深く、熱く加速し続けていた。




