第4章 第27話:木曜日の朝、解けたハーフアップと鏡の中の微熱
木曜日の午前7時半。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、雨上がりの澄んだ空気を含んで、静まり返ったリビングを白く染めていた。
俺はベッドの端に腰掛け、乾いたワイシャツの袖に腕を通しながら、昨夜の記憶を反芻していた。
激しい雨の中、料理という大義名分もあの淡いピンク色のエプロンもない部屋で、ついにその華奢な肩を強く抱き寄せた。俺の胸元に顔を埋め、シャツの生地をぎゅっと握りしめていた千歳の体温。彼女が愛用している少し甘い香水の匂いが、今も室内の空気に仄かに溶け残っている。
胸の奥を激しく揺さぶるドギマギとした精神的狂瀾は、朝の光を浴びてもなお、一ミリも衰えることなくトク、トクと拍動を続けていた。
「――蓮、洗面台、空いたわよ。……早くしなさいよね、遅刻するんだから」
パタパタというスリッパの音と共に、洗面所から千歳が姿を現した。
彼女はオフィスのネイビーのジャケットをまだ羽織っておらず、白ブラウスの第一ボタンを少しだけ緩めた姿だった。そして何より、いつもなら一寸の隙もなくきっちりとまとめられているはずのハーフアップの髪が、今はまだ完全に解かれ、艶やかな黒髪が柔らかな波を打って彼女の肩口へと流れ落ちている。
お互いに想いを通じ合わせ、安全な「幼馴染の男友達」という防壁を完全に粉砕してしまったからこそ、こうして朝の同じ空間に並び立つ日常のリアリティが、二人の理性を激しくかき乱す。
「……おう、ありがとな」
俺が立ち上がると、千歳はビクッと小さく肩を跳ね上げ、手に持っていたヘアブラシをぎゅっと握りしめた。
「な、何よ。人の顔、じっと見て」
「いや、髪、解ろ新線だなと思って」
「……バカ」
千歳はぷいっと向こうを向き、足早にリビングの姿見の前へと移動した。
だけど、向けられた横顔の、黒髪の隙間から覗く小さな耳たぶが、朝の光の下で隠しきれない鮮やかな桜色に染まっていくのを、俺の目は見逃さなかった。
彼女は鏡に向かい、細い指先で不器用に髪をすくい上げ、いつもの「広報部の如月さん」としての鉄の仮面を作り直そうとハーフアップを整え始めた。だけど、鏡に映る彼女の大きな瞳は微かに潤んで揺れており、その手元はいつもより明らかにぎこちなく震えている。
大義名分をすべて失った夜を越え、これから再び、あの戦場のようなオフィスへと向かわなければならない。
誰もがただの日常として通り過ぎるフロアの裏側で、剥き出しになったこの熱量を抱えたまま、本当に完璧な「他人のフリ」なんて維持できるのだろうか。
鏡を挟んで交錯する二人の不器用な視線が、木曜日の新しい朝の中で、どこまでもじれったく、濃密に混線し続けていた。




