第4章 第26話:水曜日の夜、引き寄せた肩と不器用な境界線
「だから、今夜だけは、この部屋にいる間だけは、私を幼馴染の枠の中に閉じ込めないで……」
千歳の瞳から零れ落ちた一粒の涙が、部屋の明かりを反射してきらりと光り、彼女の白い顎のラインを伝っていった。
俺の服の袖を掴んだまま、必死に感情の決壊を堪えようと震える細い指先。その剥き出しの熱情を前にして、俺の胸の奥のドギマギとした精神的狂瀾は、もういかなる理性の壁をも容易く突き破っていた。
「閉じ込めるわけないだろ」
俺は重ねていた手のひらに力を込め、彼女の手首を優しく、だけど拒絶を許さない強さで引き寄せた。
勢いあまって、千歳の華奢な身体が俺の胸元へと倒れ込んでくる。
「あ……」
短い吐息とともに、彼女の柔らかな肩が、俺の胸へと完全に重なった。
オフィスのネイビーのジャケットを脱ぎ捨て、薄手のブラウス一枚になった彼女の体温が、ダイレクトに俺の身体へと流れ込んでくる。ハーフアップにまとめられた黒髪から、彼女が愛用している少し甘い香水の匂いが、雨の湿気を含んだ部屋の空気のなかに鮮烈に爆ぜた。
千歳は俺の胸に顔を埋めたまま、小さく身を縮めていた。
いつもならキッチンで「ちょっと蓮、何してんのよ!」と生意気にツンツンと怒鳴り散らしていたはずの彼女が、今は嘘のように静かに、俺のシャツの生地をぎゅっと握りしめている。
「……蓮、ずるいよ、あんたは」
胸元から、籠った千歳の声が聞こえた。
「自炊訓練」という、二人が寄り添うための唯一の免罪符を失ってから、毎晩のようにこの部屋で繰り返される、名前のない不器用な対峙。エプロンを外した途端に、どうやって距離を測ればいいのか分からず立ち往生していた袋小路のなかで、俺たちは今、ようやくお互いの本当の輪郭に触れていた。
「会社での他人のフリなんて、もうどうだっていい。明日、お前がオフィスで『如月さん』の仮面を被ってどんなに冷たく振る舞っても、俺は傷ついたりしない。ここでこうしてお前の熱を受け止めてるのが、本当の俺たちなんだから」
俺は彼女の背中にそっと手を回し、その震える肩を包み込んだ。
千歳はビクッと身体を震わせたあと、さらに深く、俺の胸の中へと縋りつくように顔を押し当ててきた。
ハーフアップの隙間から覗く彼女の小さな耳たぶは、オフィスの無機質な蛍光灯の下で見せるどんな表情よりも、鮮やかで濃密な桜色に染まりきっている。
安全な「幼馴染の男友達」という殻を完全に踏み砕いた夜のなかで、俺たちのじれったいモラトリアムは、激しい雨音に祝福されるようにして、どこまでも熱く、深く混線し続けていた。




