第4章 第25話:水曜日の夜、袖口の熱量と揺れる輪郭
「もっと、あんたの体温が欲しくなっちゃうじゃない……」
千歳が俺の服の袖口をぎゅっと握りしめたまま、泣き出しそうな声を絞り出した。
その瞬間、静まり返ったリビングの空気が一気に沸点へと達したかのような、圧倒的な熱量が二人の間に膨れ上がった。
窓の外では、依然として激しい雨がアスファルトを叩きつける音が聞こえている。だが、今の俺の耳には、目の前で肩を激しく上下させている千歳の、小さく震える吐息の音しか届かない。
俺のブレザーの袖を掴む彼女の白い指先は、皮膚の表面が白くなるほどに力が入っていた。
オフィスでの一寸の隙もない「広報部のエース」としての鎧。それをすべて剥ぎ取られた彼女は、今や自分の胸の奥で暴れるドギマギとした精神的狂瀾を隠そうともせず、ただ一人の少女として俺の目の前に立ち往生している。
「千歳……」
俺はゆっくりと手を伸ばし、俺の袖を握りしめている彼女の手首に、そっと自分の手のひらを重ねた。
触れた瞬間、彼女の身体がピクッと跳ね上がる。ブラウス越しに伝わってくる手首の脈拍は、驚くほど速く、そして熱い。
かつて俺たちを繋ぎ止めていた「海外生活のための自炊訓練」という不器用な大義名分は、もうこの部屋のどこを探しても見当たらない。淡いピンク色のエプロンを免罪符にすることも、料理の段取りを言い訳にして距離を詰めることもできない。
だからこそ、こうして肌が触れ合う瞬間、その意味はあまりにも直接的で、重く、お互いの理性を容赦なく焼き尽くしていく。
「……蓮、離さないで」
千歳は俯いたまま、ハーフアップの髪を小さく揺らして呟いた。
髪の隙間から覗く彼女の小さな耳たぶは、冷たい雨に濡れていたはずなのに、コンロの熱気のせいではない鮮やかな桜色に染まりきっている。
「明日になったら、また私は会社で『如月さん』にならなきゃいけない。あんたを『相馬さん』って呼んで、冷たいビジネス敬語を使って、他人のフリを続けなきゃいけないのよ。……だから、今夜だけは、この部屋にいる間だけは、私を幼馴染の枠の中に閉じ込めないで……」
ゆっくりと顔を上げた千歳の大きな瞳から、一粒の涙が頬を伝って流れ落ちた。その瞳の奥には、日常が変わってしまうことへのリアルな怯えと、それ以上のスピードで加速していく俺への剥き出しの熱情が、狂おしいほどに混線していた。
逃げ道を完全に失った袋小路のなかで、俺たちは繋いだ手首から流れ込む体温の確信に身を委ねるように、ただじれったく、夜の深淵へと沈み込んでいった。




