第4章 第22話:水曜日の昼下がり、濡れた傘と重なる残像
13時15分。
昼休憩が終わる間際のオフィスフロアは、外のしとしとと降る雨のせいで、どこか気だるく湿った空気に包まれていた。
俺は午後からの研修準備を進めるため、共有のフォルダーに格納されたデータをブラウジングしていた。だが、画面の文字を追う俺の思考の裏側では、午前中にデスク越しに交わしてしまった、あの一瞬の視線の交錯が、強烈な引力となってドギマギとした精神的狂瀾を呼び起こし続けている。
終わりの決まったロンドン赴任が白紙になり、夜の部屋を彩っていたあの淡いピンク色のエプロンという免罪符すら失った今。
お互いを特別に想い合っているという剥き出しの事実だけを抱えた俺たちにとって、この「如月さん」と「相馬さん」としての日常は、歩くたびにきしむ薄氷の上のようだった。
「――あ、如月さん。その広報部用の資料、僕が人事部へ行くついでに持って行きましょうか?」
「いえ、大丈夫です。自分で直接、担当の方へお渡しして共有フォルダーのパスを確認してきますので」
フロアの入り口から、聞き覚えのある凛とした声が聞こえてきた。
顔を上げると、ネイビーのジャケットの襟元を正しながら、こちらの人事部ブースへと歩いてくる千歳の姿があった。一寸の隙もないいつものビジネススマイル。ハーフアップにまとめられた黒髪が、彼女の小気味よいヒールの足音に合わせて揺れている。
「相馬さん、お疲れ様です。先ほどご依頼いただいた、来期のインターンシップに関する広報スケジュールです」
千歳は俺のデスクの前に立ち、完璧なビジネス敬語とともに一冊のクリアファイルを差し出した。
周囲の社員たちは、日常のありふれた業務連絡として気にも留めていない。
「ありがとう、如月さん。助かるよ。パスの共有も今しておこうか」
「はい、お願いいたします」
俺がマウスを操作して画面を動かす間、千歳はデスクの横に直立して待機していた。
オフィスの無機質な空気のなかに、彼女が愛用している少し甘い香水の匂いが、雨の湿気と混ざり合って、いつもより濃密に漂ってくる。
画面を確認するフリをして、俺がふっと視線を上げた。
その瞬間、千歳と真っ直ぐに目が合った。
彼女の大きな瞳が、一瞬だけ激しく揺らめいた。
千歳は手元に抱えていたノートをぎゅっと胸元で握りしめ、唇を小さく戦慄かせた。表情こそ完璧な「広報部のエース」を維持しようとしていたが、オフィスの白い蛍光灯の下で、ハーフアップの隙間から覗く彼女の耳たぶが、隠しようのない鮮やかな桜色に染まっていく。
(……千歳も、同じなんだ)
料理という大義名分をすべて失い、本当の意味で向き合ってしまったからこそ、この数センチの距離で交わされる業務連絡が、二人の理性を狂おしいほどにかき乱す。
クリアファイルを受け取る指先が、ほんの少しだけ触れそうになるのを、お互いに恐れるように、だけど渇望するように、じれったい静寂が二人の間で激しく火花を散らしていた。




